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どうも、こんにちは。
今年(2021年、令和3年)も紅葉の季節となりましたので、京都の紅葉の記事を書いていきたいと思います。
その第2回目は、宝筺院(ほうきょういん)、厭離庵(えんりあん)、壇林寺(だんりんじ)、祇王寺(ぎおうじ)と、かつて「愛宕道」と言われた、嵯峨野から愛宕山へと通じる道の紅葉スポットを巡ります。
この辺りの紅葉スポットには、紅葉が美しいだけでなく、わびさびとか、世の無常というものをも感じさせる場所も多く、私がほぼ毎年訪れるお気に入りの紅葉スポットも幾つかあります。
今年もやはり、行かずにはおられませんでした。
まずはいつもの通りアクセスから。
最寄りの交通機関には、
京都市営バス「嵯峨小学校前」停留所があります。
前回記事の天竜寺、
嵐電「嵐山」駅の辺りから北方向へ、10〜15分くらい歩きますと、突き当たりに‘嵯峨釈迦堂’こと清涼寺の門が。
そこから西へ、清涼寺の塀沿いに歩きますと。
宝筺院(ほうきょういん)の門が見えてきます。
拝観料を払って中へ入ると、外とは別世界のような紅葉風景が広がります。
本堂に礼拝し、紅葉が広がる中をさらに進みます。
ところでこの奥には、あの楠木正成(くすのき・まさしげ)の嫡男である、楠木 正行(くすのき・まさつら)の首塚とされる塚があります。
しかも、室町幕府を開いた足利尊氏の息子で、室町幕府二代将軍・足利義詮(あしかが・よしあきら)の墓だと伝えられている石塔を並んでいます。
そう。
それぞれお互い父親が敵同士だった二人の墓が仲良く(?)並んでいるのです。
案内パンフレットには、以下のことが書かれていました。
正平3年・貞和4年(1348年)、楠木正行が四條畷の合戦で戦死すると、生前に縁があった黙庵禅師がこの寺にその首を葬りました。後にこの話を聞いた義詮は、故・正行の人柄を評価し、自分も死後は隣に葬るように言い遺したそうです。
生前敵対関係にあった相手にそこまでの敬意を払えるとは、足利義詮という人物もなかなか大した人物だったのでは、という気がしてきました。この話を知る前は、「二代目・義詮は、初代・尊氏や三代目・義満と比べたら、今ひとつ影が薄いなあ」という印象しかなかったのですが、これで義詮に対するイメージが変わりました。
さらに散策をして出口へ。
そこから、かつて「愛宕道」と呼ばれた道を西へと歩き。
民家の間にある細い道を奥へと進んで行きますと。
藤原定家が『小倉百人一首』を編纂し、さらに藤原定家の墓もあるという古刹(えん1りあん)があります。
ここは、毎年紅葉の時期(11月後半〜12月はじめくらいまでか?)のみ公開されるという、京都嵯峨野の隠れた紅葉名所でもあり、また我がお気に入りの紅葉スポットのひとつでもあります。
ただこの時、境内の紅葉はまだ赤くは染まっていなかったようです。
青い葉も目立ち、まだこれからという感じでしたね。
しかし、ここの葉が赤く染まると。
さらにその葉が落ちて、地面を覆い尽くすと。
それは見事な、紅に染まった庭の光景が広がります。
以下は
過去記事の画像ですが、こんな感じになります。
今年も12月の初め頃まで一般公開されているそうなので、出来れば再訪し、また紅に染まる庭の光景を見てみたいものです。
厭離庵から再び愛宕道に戻り、先を進みます。
その途中、祇王寺と壇林寺へと続く分かれ道があります。
この分かれ道から奥には、壇林寺、滝口寺、そして祇王寺という3つの古刹があります。
そのうち滝口寺は、この時何故か入れず。
まずは壇林寺から。
優れた知性と美貌、そして仏教への厚い信仰心で名高い、嵯峨天皇の后・檀林皇后。
その檀林皇后が創ったという古刹がここだそうです。
本殿には、貴重な仏像や寺宝などが収められていましたが、中でも私の目を引いたのが、「倶利伽羅竜王(くりからりゅうおう)」の像です。
「倶利伽羅竜王」とは、不動明王の剣に巻き付いているという竜神です。」
ただ本殿の中の仏像や寺宝などは撮影禁止となっていましたので、あの大きく見事な倶利迦羅竜王像をここでお目にかけられないのが少々残念です。
さらに紅葉の境内を散策。
ところで檀林皇后と言えば「檀林皇后九相図」のモデルになった人物でもあります。
知性と美貌あふれる貴婦人でも、死して、その遺体が醜く腐り、朽ちて、土に還っていく様を描いた絵図ですが、これは熱心な仏教徒であった檀林皇后が、敢えて自らの死した姿を晒して、世の無常を説こうとしたものだとする説もあります。
なお「檀林皇后九相図」についてご興味ある方は、
こちらの過去記事か、
こちらの動画をご覧ください。
そのさらに奥には古刹・祇王寺があります。
拝観料を払って境内へ。
紅葉風景が広がる境内へ。
ところで『平家物語』にも記され、この古刹の由緒ともなった白拍子・祇王(しごう)の物語が伝わっています。
過去記事のおさらいになりますが、以下簡単に紹介します。
当時、祇王(ぎおう)と祇女(ぎじょ)という都に名高い白拍子の姉妹が居ました。
特に姉の祇王は、当時の最高権力者・平清盛の厚い寵愛を受け、名声も富の絶頂期にありました。
ある時、仏御前(ほとけごぜん)という若い白拍子が清盛の元に「舞を披露したい」と訪れます。
最初のうち清盛は断っていましたが、祇王が優しく取りなしたので、舞と歌を披露させることになりました。
しかしそこで清盛は仏御前の方に心を奪われ、祇王と祇女はお払い箱となって館を追い出されます。
祇王は祇女、母・刀自と共に、次の歌を残して去っていきます。
「萌え出ずるも 枯るるも同じ 野辺の草 いづれか秋に あはではつべき」
(意訳:芽生えたばかりの草も枯れようとする草も、野辺の草は結局みな同じように、秋になると枯れ果てる。同じように人も誰しも、いつかは飽きられ、終わる時が来るのでしょう)
静かに暮らしていたところに、あの清盛から「仏御前が退屈しているから、出てきて舞をしろ」との命令が下りてきます。
祇王たちが追いやられたのは清盛と仏御前が原因ですから、彼女らにとっては屈辱的な仕打ちですが、祇王は結局従わざるをえません。
再び訪れた清盛の館でも、かつてよりはるか下座に置かれるなど、境遇の変化を嫌でも思い知らされることになる中で、歌と舞を披露されることになります。
この屈辱的な仕打ちに祇王は世をはかなんで、妹・祇女、母・刀自と共に世を捨て出家し、今の祇王寺の場所に草庵を建てて暮らしました。
この時、祇王21歳、祇女19歳、刀自45歳でした。
それからさらに後、ある秋の夜のことでした。
夜中に草庵を訪ねてくる者が居ました。
それは出家して尼の姿になった、あの仏御前でした。
祇王が舞わされている姿を見て彼女も、「自分もいつかあのようになるのか」と世の無常とはかなさを思わずにいられなかった、とのことでした。
仏御前も今までのことを祇王たちに謝罪し、一緒に出家させてほしいと願います。
祇王たちはそれを受け入れ、4人は仲良く仏道に励み、最後は往生を遂げました。
以上が祇王の物語のだいたいのあらすじです。
祇王の話もまた、世の無常を感じさせる話でもあります。
京都・嵯峨野は、かつての葬送の地があって、古来より世の無常を感じさせる地でもあったのですが。
この地の紅葉スポットにも、紅葉風景にも、何だか世の無常を感じさせるものがあります。
だからこそ、私を含めて多くの人が心惹かれ、何度も引きつけられてしまうのかもしれない。
この地の紅葉風景を観る度に、こんなことを思ってしまいます。
なお、この記事は
『京都妖怪探訪』シリーズの
『霊場魔所の紅葉』シリーズに「シリーズ外記事」として加えます。
また次回から、
『霊場魔所の紅葉』シリーズ及び
『京都妖怪探訪』もぼちぼちと再開していきたいと思います。
その時、心霊スポットとしても有名なある紅葉名所をとりあげる予定ですので、よろしくです。
今回はここまで。
また次回。
*宝筐院への地図・アクセスは
こちら。
*宝筐院のHP
http://www.houkyouin.jp/index.html
*祇王寺への地図・アクセスは
こちら。
*祇王寺のHP
https://www.giouji.or.jp/top.html
*『京都妖怪探訪』シリーズ
https://kyotoyokai.jp/
