「真如堂の紅葉と鎌倉地蔵尊と殺生石伝説 @ 京都妖怪探訪(722)」
妖怪スポット
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どうも、こんにちは。
今回も
シリーズ前回に続いて、京都の紅葉名所のひとつである
‘真如堂’真正極楽寺を巡ります。
今回は、伝説・伝承に名高い大妖怪・九尾(きゅうび)の狐が変じたという殺生石(せっしょうせき)という魔石で創られたという鎌倉地蔵尊を訪れます。
シリーズ前回の続きで、‘真如堂’真正極楽寺の山門をくぐり境内へと進みます。
多少の色むらはあるようですが、境内参道も見事な紅葉に彩られています。
本堂付近はさらに見事な赤に彩られています。
三重塔の周りもご覧の通り。
そして三重塔の近くに建っている小さなお堂が。
このお堂に鎌倉地蔵尊があります。
この鎌倉地蔵尊は、伝説や伝承に名高い大妖怪・九尾(きゅうび)の狐が変化したという殺生石(せっしょうせき)という魔石で創られたという、曰く付きの地蔵だそうです。
妖怪マニアやオカルト、伝説や伝承等に詳しい方ならご存知の方も多いかもしれませんが。
まず、九尾の狐という妖怪について解説しましょう。
九尾の狐といえば、そのずば抜けた力の強大さや狡猾さだけでなく、何千もの歴史の節々に現れ、幾つもの国を乱したり滅ぼしたりしたというスケールの大きな悪行を重ねてきた為、現在でも有名な大妖怪として知られています。
中国の神話や伝承の世界観を表した古書『山海経(せんがいきょう)』では、人を喰うとされてますが、瑞獣ともされています。
元々は数千年を経た妖狐だとも、世界が混沌としていた時代の陰の気から生じたとも言われています。
その名のとおり、九本の尾を持つ妖狐の姿をしています。
生まれからして凄いですが、その後に重ねてきた悪行の数々が、スケールが大きくて凄い。そのうち特に有名なのは以下の6つ。
(1)古代中国の殷王朝に現れ、絶世の美女・妲己(だっき)となって紂王を惑わし、贅沢と残虐非道の限りを尽くして殷王朝を滅亡に追い込む。このエピソードは、古くから『封神演義』などの作品でも描かれて有名。
(2)古代インドのマガダ国に、華陽夫人という美女に化け、斑足太子(はんぞくたいし)の妃となって、仙人の首を斬らせるなどの残虐行為を行う。しかし正体を見破られて、北の空に逃走する。
(3)古代王朝の周王朝に現れ、褒似(ほうじ)という絶世の美女に化け、第12代幽王を惑わし、国を乱し、幽王を孤立と破滅に追い込む。
(4)若藻という美少女に化け、遣唐使・吉備真備の船に乗り込んで日本に渡来。後に玉藻前(たまものまえ)という美女に化け、鳥羽天皇の寵愛厚い側女となる。それから鳥羽天皇は原因不明の病に苦しむが、陰陽博士・安倍泰親(「安倍泰成」とする文献もある)に正体を見破られ、那須の原野に逃走。さらに安倍泰親の神鏡の力に悪事を封じられる。
(5)しかし(4)から十数年後、妖狐が再び悪事を働き、領民を苦しめるので、朝廷は安倍泰親(泰成)や安房の国の三浦介義純(「義明」とする文献もある)、上総の国の上総介広常を那須へ遣わして、討伐を命じる。彼らによって倒された妖狐の屍は、後に「殺生石」と呼ばれる大きな石に変化。
(6)(5)からさらに二百数十年後、妖狐が変じた石は強烈な毒気を放って、付近の領民や鳥獣などを死に至らしめたので、「殺生石」と呼ばれて恐れられる。朝廷は、国中の名僧を那須野が原へ遣わせて解決を試みたが、僧達は皆毒気に倒れてしまった。しかし会津・示現寺の玄翁和尚(げんのうおしょう、「源翁」ともされる)が、長い祈祷の後に持っていた杖で石を叩くと、殺生石は砕け散り、ようやく妖狐の霊は成仏した。
これだけの伝説・伝承を遺している妖怪ですから、古くから多くの作品の題材にもされてきています。
古くは『封神演義』に、殷王朝の紂王を惑わして残虐非道の限りを尽くした妲己(だっき・九尾狐狸精)として登場。
日本でも能『殺生石』、歌舞伎、浄瑠璃、御伽草子などの作品の題材に。
大津祭の山鉾のひとつ、「殺生石山」のモチーフになっています(※殺生石山については
シリーズ第146回記事で紹介)。
現代のエンタメ作品でも、この大妖怪はしばしば登場しているようです。
日本で最も有名な妖怪漫画『ゲゲゲの鬼太郎』原作でも、日本侵略と殺された姉の復讐の為、九尾の狐の弟で、中国妖怪軍団のボスでもあるチー妖怪が、日本を襲撃してくる「妖怪反物」という話があります。
『ゲゲゲの鬼太郎』第6期アニメ版でも、「大逆の四将」の一人として登場しています(余談ですが、その後‘九尾の狐の弟’チー妖怪が中国妖怪軍団を率いて襲撃してくる展開を私は予想・期待したのですが、そうはならなかった・・・)。
また藤田和日郎の妖怪漫画『うしおととら』では、最大・最後の敵役「白面の者」としても登場。
その他、
『FGO』等のスマホゲーム、カードゲームなどにも登場しています。
九尾の狐について書いていたら、すっかり長くなってしまいましたが。
この地蔵尊は、その名の通り最初は鎌倉に祀られていたのですが、江戸時代のはじめ頃、甲良豊前守という棟梁の夢枕にこの地蔵が立ち、「京都の真如堂へ衆生済度のために移転させよ」というお告げも与え、京都のこの地へ移させた、と伝えられています。
数々の伝説・伝承を遺した大妖怪のなれの果てが、那須の地に残る「殺生石」と、この鎌倉地蔵尊であるかも思うと、なんと申しますか、非常に感慨深いものがあります。
お堂の内部は暗さとガラスの為、うまく撮影できません。
というより、この時曇り気味だったこともあって、内部も見えにくかったです。
それでもかろうじて中を観ました。
その時の印象ですが・・・安倍泰親・泰成の時代から800年以上、玄翁和尚の時代から500年以上経ているはずですが、その割には妙にきれいで真新しいような印象を受けました。
大変失礼な話ですが、ふと「この地蔵は本当に、500年以上前から遺されてきた地蔵なのだろか?」という疑念も湧いてきました。
そう言えば大分以前にも、(本シリーズに何度も登場されている)
京都の妖怪伝道師・葛城トオル氏と、ここ鎌倉地蔵尊を訪れたことがありました。
その時葛城氏も、私と同じように「何百年も経ている割にはきれいすぎでは?」という疑念と共に、以下のような仮説も立てておられました。
多くの人や鳥獣の生命を奪ったという殺生石の正体は、実は一種の有毒物質か。もしかしたら放射性物質だったのではないか。近年の世の中は、放射性物質について非常にナーバスになっている(※その当時はあの東日本大震災と東電福一原発事故からまだ間も無い時期だった)。だからそんな危険なもので創られた元の地蔵は密かにどこかへ移され、代わりの地蔵が安置されたのではないか。
もっとも、その仮説や伝説・伝承の真偽を確かめるすべは、我々には無いのですけどね・・・。
ただ、多くの伝説・伝承を背負った地蔵尊は、今も黙してこの場所に立ち続け、昨年秋も季節は巡り、紅葉は美しく染まっていました。
今回はここまで。
次回あと一回、真如堂の紅葉風景と、この古刹に遺された伝承を紹介します。
*‘真如堂’真正極楽寺へのアクセスは
こちら。
*‘真如堂’真正極楽寺のHP
https://shin-nyo-do.jp/
*『京都妖怪探訪』シリーズ
https://kyotoyokai.jp/
