「淀の長円寺とえんま堂 @ 京都妖怪探訪(596)」
妖怪スポット
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どうも、こんにちは。
2019年(平成30年)を迎えました。
前々回と
前回記事の続きで、正月3日の‘妖怪の子孫’‘京都の妖怪伝道師’葛城トオル(玄幽)氏主催の京都・魔界巡りツアーのレポート後半です。
前回まではかつて「えんま道」を歩き、今回はその行く先にある長円寺とえんま堂を訪れました。
淀新町天満宮から現在は府道126号線となっている「えんま道」をさらに歩き続け、橋を渡りますと川沿いに山門が見えてきました。
京都・大阪の街道沿いに建立されたという浄土宗の寺院で、創建については今ひとつはっきりしていないようですが、江戸時代から信仰されてきたそうです。
この寺はかつて、
鳥羽伏見の戦いで幕府側の野戦病院となっていたそうで、山門前にはそれを示す石柱も立っていました。
あの
榎本武揚の書によるものもあります。
何故、ここが幕府軍の野戦病院や戦死者の葬送地とされたのか。
長円寺HPの
「幕末・長円寺の歴史」には、その理由として、新政府軍とえいども、足立観音と閻魔(えんま)王を祀るこの寺を攻撃することができなかった、とあります。
ところでここで葛城氏から「その当時、その日の戦闘が終わったら、敵味方が同じ銭湯に通っていた」とかいう驚くべき話が。
いえいえ、これは駄洒落で言っているわけではありません(笑)。
どうもその当時の日本人は、「戦争も仕事のうち」とか割り切っていたところがあったそうで……。
しかし戦争というガチの殺し合いをしていた相手と同じ銭湯に入るというのは……今の感覚からすれば、ちょっと考えられませんが。
同じ日本人でも、その当時と現代との意識や感覚の違いには驚かされます。
本堂です。
ご本尊は
阿弥陀如来です。
ですが今回は、境内の一角にある閻魔(えんま)堂にあるえんま様に礼拝へ。
この閻魔様の存在が、幕府軍・新政府軍の破壊や殺戮等を抑えていたのですね。
なお、撮影そのものは以下の様に許可されていました。
ただし、「(今、流行しているらしい)キャラ人形など私物を一緒に映す」など、不敬にあたる行為は厳しく禁止されていましたが。
えんま様とその両脇の
倶生神(ぐしょうじん)の像。
「倶生神」とは、人の善悪を記録し、閻魔王に報告する2人の神様のことです。
「千本ゑんま堂」(※
シリーズ第164回などで紹介)の閻魔像の両脇の「地獄の検察官・司命尊」と「地獄の書記官・司録尊」とを思い出しますが、同一の存在でしょうか?
この日は「閻魔様の前で昨年の罪を懺悔(さんげ)し、欲・怒り・愚痴の心を洗い流し、無事を願う」という
「初閻魔」の期間中でした。
私は昨年懺悔するべきことが……多すぎて、困ってしまいます(苦笑)。
境内に立つ観音堂へ。
この観音堂で、御朱印を。
しかもその期間限定の御朱印が授与されていましたので、頂いてきました。
こうして長円寺を後にしましたが、帰る時、えんま堂の前に立つ石柱に気付きました。
これも
戊辰戦争の慰霊碑でしょうか。
合掌。
長円寺を後にし、えんま道を戻り、
京阪「淀」駅へ。
こうしてその日の京都淀魔界巡りツアーは、幾つもの興味深い発見を得て、無事終了しました。
今回はここまで。
また次回。
*長円寺へのアクセス・周辺地図は
こちら。
*長円寺のHP
http://chouenji.2-d.jp/
*葛城トオルのFacebook
https://ja-jp.facebook.com/toru.katsuragi
*葛城トオルのTwitter
https://twitter.com/yokaido
*『京都妖怪探訪』シリーズまとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm
