3年生の古典の授業で、現代語訳を当てていきながら、時にそこから質問をしていくことがあります。今日も『源氏物語』を読んでいて、源氏の詠んで和歌の中に「先立たれたり、死に後れたりする間もなくいたい」というものがあり、「先立たれたり、死に後れたりせずに」どうしたの?と問いかけたのです。死を悟った最愛の紫の上を慰める場面です。この質問をされた男の子は、なかなかこちらの聞きたい答えが出ないのです。まぁ、こういうものというのはピンと来てしまえば、何と言うことはないのですが、来ないとどうにも悩むものです。彼も「生きていたい」とまずは答えます。死を間近にして、それは説得力を持ちません。次に「自分が先に死にたい」となってしまいます。ここまで来れば、どつぼにはまっていますね。察しのいい人たちは、答えに気付いていますから、彼の焦りをよそにあちこちでポツポツと笑い声もあります。どうしても「一緒に死にたい」が出てこないのです。
実は入試においてはこのあたりが微妙に合否を分けることになります。つまり察しのいいタイプと、察しの悪いタイプがいるわけです。これは能力とは異なるもので、それでも入試のような、ある意味では極限に近いところで、解答能力を高めるのはこういうものだとも言えるわけです。
入試問題を考える場合、国語にしても、数学にしても、出題者の意図というものを理解すると、解答に近づきます。理科や数学なら、この問題で使うべき公式や法則が何であるかが分かれば、解答できるわけです。逆にそれが読み取れなければ、どんなに計算能力が高くても答えには行き着かないのです。同様に英語や国語でも単語や文法が分かっても、出題者の意図を読み取れなければ、答えを誤ることもあるのですよね。ここに察しの良さがものを言います。感覚的に察してしまえば、力が多少劣っても、答えに行き着くことが十分にあり得るのです。自分が察しのいいタイプか、そうでないのか、それを自覚するだけでもこれからの勉強に影響しそうです。
これってもしかすると、ラグビーの接点の場面でも同じかもしれません。たとえば相手が次にどちらにステップを切るのか、それに合わせてタックルに入ることを考えると、大切な要素です。それを間違えれば、タックルは外されてしまうのですからね。ステップを切る側の条件も同じですね。ステップで抜けるというのは、スピードや技術以上に、この察する力が不可欠なのかもしれません。

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