仕事に追われ、忙しい。しかし、利益収入に直接結びつかない。
貧乏暇ナシという言葉が昔からある。
う〜ん、やはり真実だと私も思う。
「我思う、故に我有り」という有名なベーコンさん(哲学者)の言葉があった。
これは、普遍的な真実だと私も思う。
それ故に・・・
「我忙しいと思う、故に我は貧乏で有る」という結論に至る。
この結論至ったが、自分でも異論はない。
帰納的か演繹的か・・・客観的な考察は別にして考えても「異論はない」
第三者的な目で冷静に考えても・・・異論はないと思う。
この論法でいけば、ひょっとすると・・・
「暇ならば、豊かであり金力もある証拠である」という理屈も成り立つ。
何もしなくて暇暇ひまヒマでも、生活が十分に成り立つということだからだ。
明日からは、暇で暇でしょうがない・・・やることがない、と思い込むようにしよう。
何もしないで暇を嘆いていよう。
そうすれば、豊かで豊富な金力も蓄えられるはずである。
論理的に考えれば、きっとそうなるはずである。
物事は全て自分の思うとおりには行かない・・・ということも真実である。
思った通り、考えた通りには行かないだろう。
そうなれば「貧乏暇あり。暇ばっかり。」となってしまう。
・・・こりゃ、何をしても貧乏なのか?努力しても貧乏なのか?という真に惨めな論理的結論に陥ってしまった。
すると、第一番目に考えた論理的な考察は間違っていたのか、正しくなかったのか?
やはり、帰納的思考と演繹的思考は相容れないのかもしれない。
どちらの思考でも成り立つことが真実だと考えられる。
そうなると「私は貧乏である」ということだけが正しい・・・ということになる。
私はそれを認めたくない。
まあ、暇であろうが、忙しかろうが、現状は貧乏であることに違いはない。
ただし、私は貧しくはない。
精神的には豊かである。
このブログを読んでいただければ「私は心が豊かである」ということが、理解していただけたはずだと思う。
しかし、物事は全て自分の思ったようには理解されない・・・ということも真実である・・・と思う。
貧乏暇ナシという言葉が昔からある。
う〜ん、やはり真実だと私も思う。
「我思う、故に我有り」という有名なベーコンさん(哲学者)の言葉があった。
これは、普遍的な真実だと私も思う。
それ故に・・・
「我忙しいと思う、故に我は貧乏で有る」という結論に至る。
この結論至ったが、自分でも異論はない。
帰納的か演繹的か・・・客観的な考察は別にして考えても「異論はない」
第三者的な目で冷静に考えても・・・異論はないと思う。
この論法でいけば、ひょっとすると・・・
「暇ならば、豊かであり金力もある証拠である」という理屈も成り立つ。
何もしなくて暇暇ひまヒマでも、生活が十分に成り立つということだからだ。
明日からは、暇で暇でしょうがない・・・やることがない、と思い込むようにしよう。
何もしないで暇を嘆いていよう。
そうすれば、豊かで豊富な金力も蓄えられるはずである。
論理的に考えれば、きっとそうなるはずである。
物事は全て自分の思うとおりには行かない・・・ということも真実である。
思った通り、考えた通りには行かないだろう。
そうなれば「貧乏暇あり。暇ばっかり。」となってしまう。
・・・こりゃ、何をしても貧乏なのか?努力しても貧乏なのか?という真に惨めな論理的結論に陥ってしまった。
すると、第一番目に考えた論理的な考察は間違っていたのか、正しくなかったのか?
やはり、帰納的思考と演繹的思考は相容れないのかもしれない。
どちらの思考でも成り立つことが真実だと考えられる。
そうなると「私は貧乏である」ということだけが正しい・・・ということになる。
私はそれを認めたくない。
まあ、暇であろうが、忙しかろうが、現状は貧乏であることに違いはない。
ただし、私は貧しくはない。
精神的には豊かである。
このブログを読んでいただければ「私は心が豊かである」ということが、理解していただけたはずだと思う。
しかし、物事は全て自分の思ったようには理解されない・・・ということも真実である・・・と思う。
投稿者:imorimasuda