追悼碑のある庭のお隣の家を「ほうせんかの家」と名づけ開放しています。  ● 毎週土曜日  13時から17時まで。  ● 順次、お料理を作ったり、映画をみたり、イベントを組みます。参加をお待ちしています。  訪問される方は、当ブログの予定をチェックして、来てください。 尚、日程が合わない方は、事前に申し込んでみて下さい。誰かが、あなたの都合に合わせれるかもしれません。  お待ちしています。   ===⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒   .   .   .   .   .   .   .   .   . 「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」のホームページも 参照下さい 「追悼する会の来歴など」や、「震災時の事件について」詳しく、わかり易く紹介させて頂いています。是非、立ち寄ってみてください https://housenka.jimdo.com

2020/8/8

朝鮮人体験の連載  朝鮮人の体験記

1963年10月
 大震災から40年後に 当時殺されかけた朝鮮人たちの体験をまとめて残して下さった方たちがいらした。
 朝鮮大学校発行「朝鮮に関する研究資料 第九集・関東大震災における 朝鮮人虐殺の真相と実態」である。

 97年目の夏、体験記録を、ここに改めて紹介する。
 本人にしか語れない言葉たちを、お一方づつ
 鬼籍に入られた方々の生の言葉たち

全 虎厳   奈良県大和郡山市
 
 私は1921年苦学するために日本に渡り、神田にあった朝鮮学生会館に出入りしました。
 そこで朝鮮独立の重要性を知り、その方面での友人関係を多く持ちました。そうするうちに南葛労働組合の人々と知り合うようになり、朝鮮の独立は朝鮮の労働者階級が日本の労働者階級と手を結んで支配権力を妥当しなければ達成できないということになり、私は亀戸の福島ヤスリ工場に工員として働きました。そして大正11年南葛労働組合の亀戸支部が結成され、そこで活動しました。
 大正12年9月1日11時58分、私はヤスリ工場で仕事中でした。逃げる途中負傷者などを助け出したりして遅くなってから亀戸の南葛労働組合の支部へいったところ、共産青年同盟の河合(義虎)委員長に出会いました。彼の話に依ると、彼は総同盟から帰る途中地震に遭い上野付近で避難してきた人たちのせわをしながら活躍したとのことである。私は彼が二日の朝帰ってきた後もそのあたり(亀戸)のひとたちのために救護活動をしたことを知り感激しました。 
 二日の夜(7、8時ころ)だったと思います。附近の人々があちこち集まってがやがやはなしていたので側へ行ってみると、炭鉱の朝鮮人労働者がダイナマイトを盗み集団で東京を襲撃してくるから、みな町を自衛しなければならないというようなことを言っていました。私は何故朝鮮人を殺すのだろうと不信に思いました。夜になって朝鮮人が大勢逃げていくというので、私は近くにある飯場へ行ってみました。飯場のすぐ側にハス畑があって、鉄道工事に従事していた同胞が20人ばかりいました。行ってみると、黒竜会の連中が日本刀などを持って飯場を襲撃し、ハス沼の中に逃げ込んだ人までも追いかけ、日本刀で切り殺していました。私は恐ろしくなってすぐその場を逃れましたが虐殺は三日の明け方まで続き、そのうち女性一人を含む三人はやっと逃げ延び亀戸警察署に収容されました。私は後でこの人たちに会い虐殺の実態を確かめることができました。あちこちで朝鮮人殺しのうわさが頻繁につたわってきました。工場の人たちは私に外へ出たら危ないから家の中にいるようにと言って無理に押し込み、外で見張りまでしてくれました。
 翌日(三日)の昼頃になってこの儘では危ないし警察が朝鮮人を収容しはじめているからそこへ行ったほうが安全だということを聞き、工場の友人たち十数人が私を取り囲み亀戸警察へ向かいました。街に出てみると道路の両側にはは武装した自警団が立ち並び、兵隊も出動していて険悪な空気が充満していました。そして連行される同胞が道で竹やりなどで突き刺され、殺された死体があちこちにありました。私も何度か襲われましたがやっとの思いで午後3時ごろ亀井署に着きました。すでに朝鮮人でいっぱいでしたので私は隣にある二階の講堂に入れられました。夜十時すぎ頃にはっここも超満員になりました。全部で千人は越えたと思われます。入り口には巡査が立って警戒しました。中国人は全部で50人ほどでしたが道場と講堂の間の通路にすわらされました。
 四日明け方三時頃、階下の通路で二発の銃声がきこえましたが、それが何を意味するのか判りませんでした。朝になって立ち番をしていた巡査たちの会話で、南葛労働組合の幹部を全員逮捕してきてまず二名を銃殺した、ところが民家が近くにあり銃声が聞こえてはまずいので、残りは銃剣で突き殺したということを知りました。私は同志の殺されたことをここで初めて知り、明け方に聞いた銃声の意味も分かりました。
 朝になって我慢できなくなり便所へ行かせてもらいました。便所への通路の両側にはすでに3,40の死体が積んでありました。この虐殺について、私は二階だったので直接見てはいませんが、階下に収容された人は皆みているはずです。虐殺のことが判って収容された人々は目だけギョロギョロしながら極度の不安に陥りました。誰一人声を立てず、身じろぎもせず、死人のようにしていました。
 虐殺は四日も一日中続きました。目隠しされ、裸にされた同志を立たせ、拳銃を持った兵隊の号令の下に銃剣で突き殺しました。倒れた死体はそばにいた兵隊が積み重ねてゆくのを、この目ではっきり見ました。四日の夜は雨が降り続けましたが、虐殺は依然として行われ5日の夜まで続きました。
 ここでひとつ付け加えておくことは3日の夕方、虐殺についてまだ知らなかったとき、亀戸署の朝鮮人係で(特攻)北島という男が、二階に上がってきて辺りを見回し誰かを探している様子でしたがすぐ降りて行きました。南葛労働組合の事で北島は私の事もよく知っていておりましたので、私は不用意にこえをかけましたが、彼には聞こえなかったと見えてそのまま降りて行ってしまいました。あとで虐殺のことを知り、危機一髪の思いで一命をとりとめ胸をなでおろしました。今でもそのことを思い出すと身の毛もよだつ思いがします。実は当時の新聞のには私も南葛労働組合の他の同志とともに殺されたと出ていたのです。亀戸署で虐殺されたのは私が実際に見ただけでも5、60人に達したと思います。虐殺された総数は大変な数にのぼったと思われます。
 虐殺は五日の夜中になってピタリと止まりました。巡査の立ち話から聞いたことですが「国際赤十字社」その他から調査団が来るということが虐殺をやめた理由だったのです。六日の夕方から、直ぐ隣りの消防車二台が何度も往復して虐殺した死体を荒川の四つ木橋のたもとに運びました。あとから南葛の遺族から聞いたことですが死体は橋のたもとに積み上げ(死体の山二つ)ガソリンで焼き払い、そのまま埋めたそうです。その後私は遺族に連れられて現場に行き、死体を埋めたあとを実際に見ました。
 死体を運び去ったあと、警察の中はきれいに掃除され、死体から流れ出した血は水で洗い流し、何事もなかったかのように装われました。調査団が来たのは7日の午前中でした。
 虐殺を免れた同胞は七日の午後、警察の庭に集合させられました。そしてなんの説明もうけず亀戸の駅に行き、線路づたいに歩かされました。私たちのまわりは武装した騎兵が取囲み、重々しい空気が流れていました。私は一人ひとり殺すのが面倒くさくて機関銃などで一度に殺す目的でどこかにつれていくのだとしか考えられず、足が地につきませんでした。習志野には11月迄いてさらに青山の練兵所に移されました。
 そして私は他の同胞と共に帰国するつもりでいましたが、南葛労働組合の同志達がどうなっているのかをどうしても知りたかったので、亀戸のメリヤス工場に戻りました。まもなく警察の中で虐殺された同志が11名であることを知り、その遺族にも会うようにもなりました。警察は河合を始めとする葛労働組合の幹部が警察の中で革命歌を歌い、大衆を扇動するからやむおえず殺さざるを得なかったと言っているが、そんなことは絶対になく、始めから虐殺が目的で警察に連行したことは、虐殺当時警察の中にいた私がいちばん良く知っております。そこで遺族たちは、虐殺について裁判問題にするから是非証人になってもらいたいと希望したので私はそのまま残ることにしました。ところが裁判は開いてもらえず、真相を訴えようとする私に対して厳しい弾圧を加えました。こんなわけで今日まで私は公式に真相を訴えられずにきました。
 
 当時、荒川の堤防工事で四ツ木橋近くには朝鮮人労働者の飯場が沢山ありました。これは私が実際に見たのではなく震災直後に、習志野からやってきた騎兵隊が橋の下で同胞たちを機関銃で虐殺したということを実際に見た人から聞いています。その他、亀戸の南の大島付近には中小企業が沢山あって多くの朝鮮人職工が働いておりました。そのひとたちの多くも騎兵隊や自警団に依って虐殺されました。ようやく生きのびて亀戸警察署ニ逃げ込んだ人もいました。

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