2021/2/9
2021新春会報、NO.2 追悼する会 会報
追悼式で展示された渡辺つむぎさんの作品を見た方もいらしたかと思いますが、会報でも紹介しました。
大変な力作です。是非総カラーで見て頂きたいです。写真が小さいのがチト残念ですが
説明文も合わせてお読みください。
まずは全体です。
作者から「牛の革(半裁)一面にレザーカービングを施した前人未到❓の大作「旅する黒べえ」です!」
こちらは左側部分

解説:左上から
●米兵・米軍属により命奪われた沖縄の女性たちを忘れない!の思いを蝶に込めて。
●ぬちどぅ宝!
黒べえの旅は、生命力あふれる大好きな沖縄の自然からスタートしました。ガジュマルを彫り上げるのにひと夏かかり、腱鞘炎になるかと思いましたよ。
●上から
・被ばく労災裁判、闘う「あらかぶさん」一家
・筑豊炭鉱を描き続けた山本作兵衛さんの代表作品を一寸拝借
・広島のハトがカモメにへんげして、中津の松下竜一先生のもとへ
こちらは右側部分です。

左から
・ トッケビのサンセに導かれたプンムルの仲間たち。宋神道(ソンシンド)さんも踊りの輪に加わって満面の笑顔
・ 「農者天下之大本!」農地を守り闘う三里塚の市東さん
・ ほうせんかの家から、ハナミズキ通りへ抜けると、豚革生産日本一を誇る街「きねがわ」へ。この牛革も、絵本「よみがえった黒べえ」も、ここで生まれました。
・ スカイツリーや東京タワーなどのシンボルよりも赤々と、東京を照らせ!山谷の炎。
・ 狭山事件の再審無罪を報告できる日までは、両親の墓参りもしないとかたくなな思いで闘う石川一雄さんと、妻早智子さん。石川さんが墓参りに行かれますように!の思いを込めて
・ 石炭(常磐炭鉱)から原子力(福島原発)へと翻弄された福島の人々と労働者たち。黒べえと赤べこ赤べえ、アイヌ文様をまとった白老牛も合流して、東京へデモをかけているようですな!
「黒べえとの旅」 渡辺つむぎ
生まれ育った九州福岡県で、部落解放運動と「筑豊」に出会った私は、その向こうに「山谷」が見えた気がして、上京してすぐに(大学の入学式よりも早く)山谷を訪れました。山谷に来てみればまた、その向こうに筑豊が見えて、帰省時にフィールドワークへ連れて行ってもらったのです。
案内されたのは木々に囲まれた墓地。墓石の合間に、人の頭ほどのボタ石が点々とあります。名も刻まれぬ、朝鮮人労働者のお墓でした。「ポチの墓」「ミイの墓」と、ペットの墓にすら名が刻まれているのに、です。更には、日本人の墓を建てる時の土台に放り込まれて、かつてより数が減っているという事です。
大学卒業後、山谷に近すぎず遠すぎずの墨田区へ越して参りました。「墨田に住むならここに行かにゃあ」と先輩に連れて来られた荒川河川敷でほうせんかの種を蒔く一団とミンジャさんに出会ったのです。
それから20数年、追悼碑の建立に向けた取り組みにも、微力ではありますが参加させて頂きました。
「私たち在日を差別しない、殺さない人間になって欲しい」との思いで地域の子ども達にチャンゴ(プンムル)を教えていたミンジャさんに親子で弟子入りし・・・子らはすぐに飽きて去るも、私だけがドはまりし続けて十数年が経ちました。たくさんの仲間に出会うことができました。
プンムルとの出会い、そして木下川(きねがわ)で解放子ども会や「よみがえった黒べえ」のお話に出会えたことで本当に豊かにしてもらえたと、墨田に来て良かったなあと思います。(「よみがえった黒べえ」をご存じでない方は検索してみてね=ほうせんかの家にも置いてありますよ)
縁あって私の元にやってきた大きな牛の一枚革もまた、一頭の牛からよみがえった「黒べえ」です。・・・ならば黒べえと一緒に南は沖縄から北は北海道まで、差別に抗う仲間の元へ旅してみようじゃないかと書き始めたのが上の作品です。
「これって、00さんだよね」「これは何を表しているの?」など対話・交流したくて、あえて謎めいた絵のみで表現してみました。
ところがコロナ禍で皆さんと対話の機会もままならず、口惜しい限りですが、いつの日かきっと実物を見てやってください。
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大変な力作です。是非総カラーで見て頂きたいです。写真が小さいのがチト残念ですが
説明文も合わせてお読みください。
まずは全体です。

作者から「牛の革(半裁)一面にレザーカービングを施した前人未到❓の大作「旅する黒べえ」です!」
こちらは左側部分

解説:左上から
●米兵・米軍属により命奪われた沖縄の女性たちを忘れない!の思いを蝶に込めて。
●ぬちどぅ宝!
黒べえの旅は、生命力あふれる大好きな沖縄の自然からスタートしました。ガジュマルを彫り上げるのにひと夏かかり、腱鞘炎になるかと思いましたよ。
●上から
・被ばく労災裁判、闘う「あらかぶさん」一家
・筑豊炭鉱を描き続けた山本作兵衛さんの代表作品を一寸拝借
・広島のハトがカモメにへんげして、中津の松下竜一先生のもとへ
こちらは右側部分です。

左から
・ トッケビのサンセに導かれたプンムルの仲間たち。宋神道(ソンシンド)さんも踊りの輪に加わって満面の笑顔
・ 「農者天下之大本!」農地を守り闘う三里塚の市東さん
・ ほうせんかの家から、ハナミズキ通りへ抜けると、豚革生産日本一を誇る街「きねがわ」へ。この牛革も、絵本「よみがえった黒べえ」も、ここで生まれました。
・ スカイツリーや東京タワーなどのシンボルよりも赤々と、東京を照らせ!山谷の炎。
・ 狭山事件の再審無罪を報告できる日までは、両親の墓参りもしないとかたくなな思いで闘う石川一雄さんと、妻早智子さん。石川さんが墓参りに行かれますように!の思いを込めて
・ 石炭(常磐炭鉱)から原子力(福島原発)へと翻弄された福島の人々と労働者たち。黒べえと赤べこ赤べえ、アイヌ文様をまとった白老牛も合流して、東京へデモをかけているようですな!
「黒べえとの旅」 渡辺つむぎ
生まれ育った九州福岡県で、部落解放運動と「筑豊」に出会った私は、その向こうに「山谷」が見えた気がして、上京してすぐに(大学の入学式よりも早く)山谷を訪れました。山谷に来てみればまた、その向こうに筑豊が見えて、帰省時にフィールドワークへ連れて行ってもらったのです。
案内されたのは木々に囲まれた墓地。墓石の合間に、人の頭ほどのボタ石が点々とあります。名も刻まれぬ、朝鮮人労働者のお墓でした。「ポチの墓」「ミイの墓」と、ペットの墓にすら名が刻まれているのに、です。更には、日本人の墓を建てる時の土台に放り込まれて、かつてより数が減っているという事です。
大学卒業後、山谷に近すぎず遠すぎずの墨田区へ越して参りました。「墨田に住むならここに行かにゃあ」と先輩に連れて来られた荒川河川敷でほうせんかの種を蒔く一団とミンジャさんに出会ったのです。
それから20数年、追悼碑の建立に向けた取り組みにも、微力ではありますが参加させて頂きました。
「私たち在日を差別しない、殺さない人間になって欲しい」との思いで地域の子ども達にチャンゴ(プンムル)を教えていたミンジャさんに親子で弟子入りし・・・子らはすぐに飽きて去るも、私だけがドはまりし続けて十数年が経ちました。たくさんの仲間に出会うことができました。
プンムルとの出会い、そして木下川(きねがわ)で解放子ども会や「よみがえった黒べえ」のお話に出会えたことで本当に豊かにしてもらえたと、墨田に来て良かったなあと思います。(「よみがえった黒べえ」をご存じでない方は検索してみてね=ほうせんかの家にも置いてありますよ)
縁あって私の元にやってきた大きな牛の一枚革もまた、一頭の牛からよみがえった「黒べえ」です。・・・ならば黒べえと一緒に南は沖縄から北は北海道まで、差別に抗う仲間の元へ旅してみようじゃないかと書き始めたのが上の作品です。
「これって、00さんだよね」「これは何を表しているの?」など対話・交流したくて、あえて謎めいた絵のみで表現してみました。
ところがコロナ禍で皆さんと対話の機会もままならず、口惜しい限りですが、いつの日かきっと実物を見てやってください。

2021/2/8
2021年新春の会報 NO.1 追悼する会 会報

ー 新しい年に向けて、じっくり歩んでまいりますー

ー はがき絵の森田先生からー
追悼式参加の感想を頂きました。紹介します。 江戸川区 姜さん
振り返れば私が追悼式に最後に参加したのは20代前半です。それから40年ぶりの参加になります。まず驚いたのは日本の市民の皆様方の凄まじい熱気と、心強い支援を肌で感じる事ができたことです。そして同時に在日コリアンの人たちの参加が余りにも少ないことに驚きました。私自身も娘が大学でこの論文を書くことに向き合っていなければ、たぶん問題意識は低かったと思います。
在日コリアンのルーツを学ぶ事は私達の一世の親たちの生きざまを深く理解する上でこよなく重要なことだと思います。民族教育を受けた私の時代は思想教育が主で何か大事なことを学び忘れた虚しさも感じます。
今回改めて普段は何気なく歩いている、この土手や街の中にも隠された悲劇がたくさんうまっているという事実を話し合うキッカケにもなりました。
最近は少し時間的に余裕が出てきたので娘を応援しつつ自分も学んでいこうと思っています。
余談ですが、その日は呉監督をはじめ4人の同級生が集まり、昔通った第5朝鮮学校の通学路を散歩しながら昔話に花が咲きました。
今回の追悼式は自分が忘れかけていた自分のルーツを改めて思い出す機会になりました。ありがとうございますm(_ _)m
震災当時の日記・手記紹介
世田谷区にお住いの松木弥栄子さんが、震災当時のお母さんの日記や手記のコピーを送って下さいました。とても貴重なものなので、松木さんの許可を得て紹介します。
松木さんのお母さんの左部(さとり)春江さん(俳人としてのお名前は大場美夜子さん)は、震災当時、群馬県館林市の館林高等女学校3年生でしたが、夏休みを利用して父親の赴任先である神奈川県厚木に滞在していて震災に遭いました。その時のことを小さな日記帳に克明に記録しています。
9月2日の記載には「夕方朝鮮人大ぜいして攻め來るとて半鐘はなる、女子供は山の手ににげる、夜もろくろく夢むすばれず仕度かためる」とあります。
その後、4日には「鮮人が天災につけこんで火をはなち人を殺したといふ。何たる口をしさ」と書きます。また6日には「飛行機三台も見え急にうれしくなる。ビラをまいた。兵士がのりこむそうな。いよいよ戒厳令がしかれたのだ。此の先が何になりゆくか、時に應じ社會主義の旗をあげやあらんか。ああ恐るべき事よ時よ」と書いています。厚木に広まった流言蜚語を女学生がどう受け止めたか、リアルに伝わってきます。
また左部春江さんが学校の校友誌に寄せた手記「震火災の惨地を後に故郷に落ち来るまで」(1923年10月21日記す)にはさらに詳しい当時の様子が書かれています。
「 恐怖の第二日目も早終り夜のとばり垂れんとする時に突如「鮮人だ朝鮮人が攻めて来た。女子供は全部山へ山へ逃げろ」とざはめいて、又しても阿鼻叫喚の一大惨状を呈した。未だ飽きたらず天はこらしめなさるのかと吐息して空を仰いだ。薄く夜の幕は降り初めた。
覚悟を決めて刃物を見出し鮮人来らば一突と思ひを決した。人々は山へ山へと馳せ逃げて行く。然し私達親子は病身である。あせっても仕方がない。どうする事も出来ぬ。何百名押し寄せてもよい。恐れず力のある限り奮闘していさぎよく死なう。おおそうだそうだ、是れに越した事はない。憎い不逞人、神聖な我国を侵さうとしてもだめである。日本には大和魂があると心に叫び溌溂とした心になった。
父上は心配して来られて逃げよ逃げよとせき立てる。
「川向ふへ三百名押し寄せたが町民男子の限り手に手に武器を持って固めてゐるから大丈夫だが、然し万が一負けた時は困るから一先づ山へ行け。父が皆殺しにするが間違って殺されたら母を大切に。恥をさらさずに。鮮人にむごい事をされぬ様にせよ」の声後にして去られた。永久の別れかしらと熱い熱い涙が止め度もなく頬を伝ふ。早皆人々は逃げ去って人影はなく只二人。暮れゆく田の畔を痛手押へて悲痛な心を抱いて急いで行く。あせりよろめいては倒れ倒れては起き足はなかなかに進まない。あせればあせるほどはかどらぬ。橋のない小川を母を助け助け三つ四つこして行く。振り返れば町は何処、燈火一点なく原と帰し、ざはめきが聞えてくるばかりである。
何たる天災が業よ。まして又其の上にむごい鮮人襲来、再び元寇時代の様な憂き目を見るのかと、張り裂ける胸をこらへこらへて母上を慰め慰められてやっと山に辿りついた。日はとっぷりと暮れてものすごい。夢結ばれぬ夜は過ぎて露にぬれ蚊にさされた身体の痛さ苦しさをしのんで山を出た。町は静ったらしい。するうちに父上が迎へに来られ一先ず帰った。 」
(『館林高等女学校・校友会・会報』第4号、1924年)
震災直後のお母さんの手記を読むと、幻の「朝鮮人の襲撃」を恐れて病身の母親とともに必死に避難した9月2日の夜の様子が手に取るようにわかります。でもその時ほんとうに恐ろしい思いをしたのは朝鮮人自身だったはずです。私たちはそのことをもっともっと事実に即して解明していかなければならないと思います。
お母さんは後に再びこの時のことを振り返って書き残しているので、それも紹介します。
「 翌日(二日)は共同でオニギリを作ってはなほ時々揺れる地震に堪えていた。その夕方父が、
「町の男の者は全部残って、朝鮮人の来襲に備えることになった。お前は母さんと二人であの山の麓の村まで逃げていなさい」
と言いに来た。父が来る以前にもう人々は、何だかわけがわからなかったが倒れた家をすてて山の方へと皆走って行ったので、やっと真相がわかって、私達二人も逃げることにした。父はもし男達が交戦して、力尽きた場合は、二人で刺違えて死ぬようにと、倒れた家の中から家宝の短刀を二振り私達に渡し、自分も一刀を腰にした。私は是が父との最後の別れかと思って泣いた。
「軀を大事にな」
と私の背を撫でながら、急にびっくりしたようにその手をはなして叫んだ、
「コルセットはどうした。コルセットはどうした!」
私はかいつまんで、倒れた家の下にあることを話した。父は狂気のようになってそれを出そうとしたが、だめだった。悲痛な顔をして父は何も言わずに立去った。きっと後髪を引かれる思いだったに相違ない。
私と母とはそこばくの食料を持ち、短刀を帯に挟んですでにたそがれかけた田圃道を遥かの丹沢山系の麓を目ざして進んだ。もうあらかた逃げ去って、見渡す広野には人影もなく、振り返った町は暗く無気味であった。小川には橋もない。みな地震で落ち尽してしまった。そんな橋のない小川を幾つか私は母を助けながら渡った。
母は私の三つの時リウマチをやり、左膝の関節がままならず、びっこを引いていた。私はギプスをしなければならない身であることも忘れてしまった。母がしきりにコルセットのない私の身を心配したが、私は気が立っているせいかそれがなくてもなんともなかった。却って身が軽々として行動が自由だった。
その夜は麓の農家で一夜をまんじりともしなかった。
明方、町の男の人達がそれぞれの家族を迎えに来た。父も来てくれた。朝鮮人は押し寄せてこなかったという。どこから押寄せてくるんですかと聞くと父は東京からだと言ったが、そんなに大勢この村に来られる筈はなかった。そして何故東京の方から押し寄せてくるのかわからなかった。相模川に架っていた橋はみんな落ちていたからであると言う。人々はそんな流言ひ語に右往左往した。 」 (大場美夜子『残照の中で』永田書房、1969年)
松木さんは、お母さんの記録を私達に送ってくれた理由を次のように教えてくれました。
「祖父の伝記(安在邦夫『左部彦次郎の生涯―足尾銅山鉱毒被害民に寄り添って』随想舎、2020年)を出すために、偶然残っていた母の日記を読んでいるうちに、この件を見つけました。母が体験していた事だと知り、衝撃を受けました。たまたま、東京新聞5月26日、8月27日の記事で、小池都知事の追悼文を送らない姿勢に憤りを覚えました。この小池都知事の姿勢が、歴史を知らない「そよ風」の集会を始めさせたと思いました。「朝鮮人暴動」のデマを一体誰が流したのか、誰が虐殺を指示したのか、小池都知事を始め私たち日本人が検証し、謝罪すべきではないか。謝罪してもしきれるものではありませんが。
母が日記に書いてから97年が経っています。この現状に疎かった私自身、反省しています。
毎週金曜日3時から文科省前での朝鮮学校「無償化」排除に反対する抗議に出て、(最近は出られませんが、朝鮮高校生の裁判を支援する会に参加)「なぜ」と憤ってきましたが、根本は同じ右派支持者によるものと、実感しました。
今後、災害時にまた、デマが出るならば、その発信元を徹底追及し、責任を取らせなければと思います。
選挙で政治を変えなければ、日本会議が主流の現政権では無理だと思います。」
こうした地道な実践を続けている方にご家族の日記・手記を通して巡り合えたことを感謝したい気持ちです。こうした日記や手記(いわば「民衆の記録」)を今後も集積できればと願っています。松木さん、本当にご協力ありがとうございました。 (西崎)

−森田先生の作品からー

2021/1/11
新年あけましておめでとうございます。 関東大震災韓国・朝鮮人追悼
2021年 あけましておめでとうございます
今年の追悼式は9月4日土曜日です
皆様、お正月をいかがお過ごしでしょうか
今年も、ほうせんかの家は土曜日の午後にあけております
始まりを16日土曜日からとします。
お時間が空いたら寄って下さい。

暮れに、訪問して下さったからのお花を添えて、お正月らしくなりました

どなたも、福の多い年になりますように
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今年の追悼式は9月4日土曜日です
皆様、お正月をいかがお過ごしでしょうか
今年も、ほうせんかの家は土曜日の午後にあけております
始まりを16日土曜日からとします。
お時間が空いたら寄って下さい。

暮れに、訪問して下さったからのお花を添えて、お正月らしくなりました

どなたも、福の多い年になりますように


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