2008/1/21

「仇男」をご覧になった方にお聞きしたい事がございます  


舞台を見たときから気になっていることがあります。

他の方のレポを拝見していても、多くの方が




「人間、何処で恨まれてるか分かりませんからね!」
という科白にハッとされたようです。

ただ、この科白を聞いた時、思い浮かべるのは
「自分が恨んでいる人」なのでしょうか?
それとも
「自分を恨んでいる人」なのでしょうか?
もしくは、その両方でしょうか?

はたまた、
「ああ、そういうことってあるよね。」と、
自分のこととしてではなく、
単なる世間一般に起こりうる事象として受けてとめられたのでしょうか?

この舞台のなかでは
ことの真相を告げられた時、登場人物が問う質問は
「自分の仇は誰なのか?」のみです。

自分も誰かの仇であることに気づく人物はいません。

おそらく、人というのはそういうものなのでしょう。
自分が誰かを恨んでも、自分が誰かに恨まれているなんて思わない。
自分が被害者であることには敏感で、加害者になったときですら、自分を被害者に仕立ててしまう。

この舞台に出てくる人物は
全員が全員、誰かの被害者でもあり誰かにとっての加害者でもあります。
でも、彼らは一様にこう考えます。
自分は被害者だから、相手に何をしてもいいのだと。

たぶん、私達もそうなんでしょう。
被害者でもあり加害者でもあり、善でもあり悪でもある。

でも、普段は「善」のほう、「被害者」であるほうにばかり
目が行ってしまう。

今回の名前の元ネタである「必殺仕置人」は
それまで、勧善懲悪が売りであったチャンバラ時代劇とは違い
善悪二元論では割り切れない世界を描いていました。

その「必殺仕置人」から生まれ後々「必殺」をしょって建つ中村主水が
語ったセリフにこういうセリフがあります。

「私はですね、世の中の仕組みというものが、
人間というものが、何もかも信じられなくなりました。」

この言葉、なんとなく今回の藤田という人物になにかダブって見えてしまいます。

私達は何人の藤田を助けられないでいるのでしょうか?
私は見終わった後、藤田に対して
そして、他の4人に対しても
「助けられなくて、ごめん。」という気持ちになったのですが
かといって、何か行動に移すでもなく、
それこそ、
中村主水ではありませんが
「私はこれから徹頭徹尾手抜きで行きます。
仕事なんか一切しやしません。
うすぼんやりの昼行灯で結構です」
なんですから、我ながら始末に終えません。

まあ、せめて、募金でもしろよ。>自分
です。

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