2006/1/20

今さら「編集者 竹一平の苦悩」東京公演レビューその伍  しばいデイズ


去年見た舞台についていったい何日かけて
このくだらない感想を書いているのでしょうか、私は?

そして、これを書いている私は楽しいのですが、
読んでいらっしゃる稀有な方々は、はたして楽しいのでしょうか?
しかも、舞台そのものを見ていない人には
判らない内容になってきているし…

呆れられるくらいでしたら全然かまいませんが、
不快な気分にさせていたらどうしましょう。

ごめんなさい。
もうしばらく、おつきあいされる方はおつきあいしてください。




第14景 平凡の仕事場
「ほっぺキレイキレイしてくるわ。」と出て行った筑摩の代わりに
部屋に戻ってきたのは、なぜか平凡。
ここで観客としてはあっと驚かされるはずなのに、
最初に大阪公演で見たときにも
「あ、そうなのね。」とすんなり受け入れてしまったのは、
作家が、次々代わっても書斎のセットが同じだったからでしょうか?

なんだか、この流れが奇妙とは思いませんでした。
平凡が出てこないほうがおかしい、みたいな
ごく自然な流れに見えました。

平凡が原稿を上げるまでずっと見張っていなくてはならない竹が
なぜ、他の担当作家のところを転々とできたのか?
平凡は竹の推測したように「多重人格」なのか?
と、見終わった後からどんどん疑問が生じてきますが、
見ている最中は、
「ホンマに役に立たん男やのぉ…」とか
「交わされたー! 逆をつくとは、さすが竹さんだ」とか
「あんだって?とんでもねぇ、あたしゃ先生だよ」とか
「あぁん。行っちゃヤダ!」とか
これまでの作家のモノマネを披露する久馬さんが楽しい!
それだけでした。

竹もそれが当たり前のように対応して、
作家の異変に気がつくのにちょっと時間がかかりすぎです。

ようやく様子がおかしいことに気がついた竹の出した結論は
平凡は多重人格者である。

でも、平凡がほんとに多重人格なら、
浅井も角川も筑摩も平凡の別人格であって
実在しない作家ということになります。
そして、「先生の書く世界が好きだったんです」と、
竹が告白している庄野も架空の人物ということになります。

はたして、そうなのでしょうか?

人格が代わったからと云って、竹の目に平凡の姿が
違う作家の姿に見えるとは思えないのですが、
もしかしたら、平凡は本当に多重人格者で
それにつきあっていた竹の頭は、その時点で混乱していて
平凡の姿まで違う人物に見えていたのかもしれません。

ただここでは、なんだか「多重人格者」と云う科白に
踊らされている気もしないでないです。

私は、物語を作る上で
もう「記憶喪失」や「催眠術」、「多重人格」は
「夢オチ」くらいの禁じ手だと思うんです。
そんな便利な手、つかっちゃあかんだろ、と。

まあ、そこを敢えて使うという手も嫌いではないんですけど。

竹にキスしようとして突き飛ばされた平凡は
本当に気を失っていたのか、
後で本人が云っているように眠っていただけなのか、
も判りません。
あ、このへん「戦争小説」での
「井野上さん、気絶してなかったの?」
「気絶してなかったんだな」
「じゃあ、何で倒れてたの」
「眠かったんだな」
重複なんでしょうか?
あ、でも、戦争小説のこの部分、台本にはないんですね。

またも、問題閑話。

作家先生が意識不明になり
「このまま社に帰ったら、絶対殺される」もずいぶんな話ですよね。
そこで、追い詰められた竹の取った策は
「よし、僕が書いてやる。今までのをヒントに、僕が書いてやる!」

…え?
何か変ではないですか?
このあと続く竹の描いた小説を見れば判りますが、
このとき竹が書く物語は、
これまで出てきた別々の小説があってこその物語です。
平凡の没になった「セカチュウ」のパクリがなければ
竹が書く子安洋一君の存在はありません。
同じことが、浅井の作品にも角川の作品にも庄野の作品にも
そして、筑摩の作品にもいえます。

ということは、竹の作品の元になる小説群は、
実在しているということでしょうか?
もしかすると、「ワシは恋愛小説家や!」と云っていた平凡が
竹のアドバイスに従って、
これまでの小説をすべて一人で書いていたのかもしれませんが、
いずれにせよ、このへんは、はっきりしませんね。


第15景 竹の小説
ラストの刑事さんの科白「メリー・クリスマス」。
大阪では、クリスマス前に
東京では、クリスマスの後に聞きました。
とてもありふれた言葉なのに、
この科白で心に何か温かいものをもらったような気持ちになれました。

ところで、最初の小説からどのくらい時間が経っているのでしょう。
細かいことを云うと、半年以上は経っているのに
子安洋一君の制服はずっと冬服なんですね。

…ごめんなさい。そんなことどうでもいいですね。
ちょっと、思いついたことを
文章の前後も考えず、ついに書いてしまいました。

第15景で、各公演ごとに異なるのは、
人質になる悪の心を演じる人と
犯人と刑事が攻防の末、それぞれ手にした武器を落とすところくらいですか?

東京27日公演では、昼夜ともに
ナイフも拳銃も拾えないのは
「この銃はなぁ、5トンあるんだ」と重さが原因でした。

大阪17日公演昼では
刑事は落ちたナイフを蹴って手の届かない処に飛ばそうとするが、
何回やっても空振り。
犯人が同じく落ちた拳銃を蹴って以下同文、
でしたね。
大阪17日夜公演は、東京と同じでした。
どちらがDVDに収録されるんでしょうか?
今から楽しみです。

感心したのは
バナナマンの悪の心は、人質解放されて舞台からはけるとき。
ちゃんと挨拶していてほのぼのしました。

あと、東京昼公演では、
おばあちゃんの描いた絵が、爆破され空から降ってくるシーンで
ひときわ大きい破片が、刑事さんの頭に降ってきて
凄く目立っていました。
つい昔見た紅白歌合戦のサブちゃんを思い出しちゃいましたよ。
これは、流石に出演者の方も目についたのか、
エンドトークの話題の一つになっていました。

さてさて、戯曲の中に毎回
ちょっと心にしみるいい科白が入るTHE PLAN9。
今回は、筑摩が書いた絵本のなかでの
「誰が額をあんな形と決めたんですか?」と
ここでの
「雪の降る寒い日だと皆の手も冷たいから
ワシの身体の冷たさが伝わらないから嬉しい」という科白が
それでした。

こういうことを思いついて
しれっと言葉にできるなんて、ずるいなあとやっかんでしまいます。

ところで、タイムマシンでこの日の出来事を
前もって見ているはずの洋二。
いったい彼は、この日の出来事をどこまで見てきていたのでしょう?


第16景 平凡の仕事場
ラストの竹の科白。
東京では一貫して、
「あれぇ? おじちゃん、だれ?」と
原稿用紙で飛行機を折り始めたかと思うと、倒れこみ
平凡に揺り起こされて、
「誰なんだね、君は。下がりたまえ!」と一喝するという
終わり方でしたね。

台本で確認したところ、
「…ん?ん…?おじさん…誰…?」
で、舞台は暗転しています。
大阪公演では、
これとは違うバージョン「いきなり英語で語りかける」というラストもあったので、
ここは竹の異常さえ伝えることができれば
あとは比較的自由なのかもしれません。

このラストについては
竹もまた多重人格となったのだ、と考えられますが、
もともとは、「…ん?ん…?おじさん…誰…?」の科白しかないことから
それよりも、極度のストレスから変な形で開放されたため
一時的に精神が破綻してしまったのではないかと、考えてみたのですが
いかがでしょう。

浅い考えをいくつか述べてきましたが、
真実は、薮の中。
見た人がそれぞれ自分なりの解釈を持てばいい舞台なのかもしれません。

説明が極度に抑えられているため、よくよく考えて見ると、
「あれはなんだったのだろう?どういうことだったんだろう?」
と、後で悩む舞台って演劇界ではよくあることだと思います。
ただ、演劇では、そういった不条理さを
「でも、演劇ってそういうものだ」と、
流してしまう向きがあるように思えます。
ところが、THE PLAN9に関しては、
あとで、物語の真相について悩む観客が殊さら多いように見受けられます。
これは気のせいかもしれませんが…。


…また、ブログの字数制限にひっかかってしまいました。
不本意ながらここでUPします。

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