2011/4/10

「わかる」ということ  ぶっくデイズ

このブログなんかでもそうですが
よく他人様の言葉(コメント)に対して
「気持ちは判ります」と書いてしまいます。

自分で書いておきながら
この言葉を書くたびに申し訳ない気持ちになります。

今日返却する図書館の本にこんな文章がありました。

米山さんは「気持ちはわかりますと簡単に言ってしまうこと、そこには当事者の占めていた場所を奪う暴力性がある」「証言に圧倒され、言葉を失って立ちすくむこと。そのことは恥ずかしいことではなく、むしろ大切なのです。」と言った。
そう、わたしたちは「わかります」と簡単に言うべきではない。それは暴力と同じなのだ。米山さんの言葉は、あれから10年たとうとしているいまも、わたしの胸のなかにしっかり残っている。テレビではわかりますと言いすぎる。スタジオで空き放題語るコメンテーターたちは、毎日わかるわかるのオンパレードだ。なにがわかるというのか。わかると言ったとたん、当事者の言葉は他者に占領され、意味をなさなくなるのだ。その言葉の重みがなくなってしまう。そんなに簡単にわかりやしない。だれもわかりなどしないのだ。「無力さの前に静かに頭を垂れるのが精一杯ではないか」。米山さんのこの言葉が、こころの奥底に刻みこまれていた。
(永田浩三「NHK、鉄の沈黙はだれのために 番組改編事件10年目の告白」)


今、テレビでよく目や耳にする「ひとりじゃない」「私達がついている」。
言葉に込められた思いを理解できないわけではありません。
でも、実際に悲しんでいる人のそばにたどり着いてその人のために何かできるわけではないと思ってしまう私にはこの言葉は少しばかり辛いです。

同様に「あなたにできることをしてください。」も。
しようと思えば
会社を休み4tトラックを借り切って支援物資を積み込んで被災地に届けること
だってできなくはない

でもやらない。

たとえ被災地に知り合いがいたとしても
今の生活を投げ出して側についてあげることができるかといえば
「できるけどやらない」と思います。
見も知らぬ人ならなおさらです。

できることの限度はもっと幅広いのに
手短にできる程度のことしかやっていません。

「常識的にそんな無謀なことできるわけない」
なんて言い訳して
でも
それがずっと後ろめたいのです。


「ひとりじゃない」「私達がついている」なんて簡単には云えません。



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