2010/2/19

mixiではこれだけで文字制限いっぱいなので消化不良気味でした  しばいデイズ

mixiに書いた記事はやがて過去として埋もれていくだけなので
こちらのブログにも転載しておきます。

THE PLAN9 2010年新春公演
「W−MEN 〜ウィンピーメン」の感想です。

ちなみにこれとほぼ同じ文章を
アンケートに書かせていただきました。



「THE PLAN9新春公演『W−MEN ウィンピーメン』を見てきました」
2010年01月27日17:13

会場はABCホール。
1月24日(日) 17:00開演の部を見てきました。

相変わらずネット上では「面白い」というレビューしか見ないTHE PLAN9 新春公演。

とは云うもののアドリブ芝居やゲームコーナー、もしくは芸人さんを名指して面白いと云っているレビューが大半で肝心の「台本」についてはあまり言及なされていないように思えます。

久馬歩単独作品としては2年ぶり「満を持して」発表されたこの台本、実際「面白い」のでしょうか?

ざっと見たところ、以前より誰が見ても判りやすくはなっていると思います。
「人も死なないし安心して見れた!」と思われる方も多いのではないしょうか?

しかし、私は今回の台本には心底落胆しました。
ストーリーも人物描写も伏線もことごとく浅いため、はっきり云ってあとがきで作家さんが吐露している「ショボい能力しか使えない超能力モノを書きたい」(ってショボいか?)から先、私には何も見えてきませんでした。
「ショボい能力しか使えない超能力モノを書きたい」のは構いませんが、これは「テーマ」ではなく「プロット」でしょ?
普通作家が思う「書きたい」は「超能力モノ」そのものより「超能力モノを使って何を語りたいのか、何を伝えたいのか」なのではないのですか?
(流石に実際の舞台では台本にはなかった「瀬名の過去と仕事や仕事仲間への思い」をとってつけたように追加していますが…)

まず、今回のW−MENはジャンルとしては「SF」ということになりますが、ストーリーにおける世界観がぼんやりとしか見えてきません。

通常、超能力者を扱った作品ではその「世界」において

@超能力者の存在は世間一般周知の事実となっている
A超能力者は存在するが、その存在は一部組織(政府機関等)にしか認知されていない
B我々の世界と全く同じで超能力はトリック。虚偽の世界にしか存在しないものとして見做される

に分かれると思います。

例えば、コントなど短い芝居の場合は、いちいち世界観を説明する時間も余裕もないため現実世界と変わらないBの世界で使われることが多いのではないでしょうか。
(だからこそ、存在しないはずの能力者が「笑い」や「悲劇」のタネとなる)

ちなみにW−MENのストーリーでは超能力は次のように扱われています。

・能力者が超能力を使った犯罪を犯している。
・能力者を集めた弁護士は「超能力の存在」を認めて裁判で弁護までしている。
・特別な組織の一員ではなくごく一般的な警備会社に勤める2人の警備員も強盗グループが超能力を使うことを認める発言をしている。
・マスコミも一連の宝石盗難事件の犯人が能力者であると報道している。
・警備員のうち1人は超能力は誰でも持っており、訓練次第で手に入ると思っている。
・十文字が舌癌を告知された時ニセ医師が何の疑いもなく「能力者」という言葉を使っている。
・ところが、その一方で「スプーン曲げ」に関しては超能力とは認めず「あれはマジックまたは力任せでやっている」と語られている。

これらのことから、本作は@として描かれているのでしょうが、作家がその世界設定を観客にはっきり提示することを怠っているため、客は科白からそれとなく察するしかありません。

それに@であれば、

・能力者は先天的なものか、後天的なものか、
・どのくらいの規模でその世界には能力者が存在するのか(マイノリティーな存在なのか、一般的な存在なのか)、
・能力者は世間的にどういう扱いを受けているのか(好意的なのか、忌み嫌われているのか)、
・一般人(無能力者)同様世間的には差別なく受け入れられているのか
・能力者は普段は自分が超能力を使えることを公にしているのか、それとも、周りには隠しているのか、

そういった設定も同時に描かれる必要があるのと思うのですが、本来超能力モノにおける物語の要となる部分が全く描かれておりません。

世界観が定まっていないためストーリーもまたリアリティがありません。
コントであれば、多少のリアリティのなさにも目を瞑ることができますが、これは2時間弱のお芝居です。
この芝居では世界観の設定があやふやなまま、「ショボい能力しか使えない超能力モノを書きたい」という思いだけでストーリーが進んでいるように見受けられます。

例えば、このストーリーでは能力者が4人出てきて、4人とも犯罪に走っています。
この話以前において彼らが過去に犯した犯罪は裁判沙汰までになっているのですが、「超能力による犯罪」として起訴されたのかどうかについてはぼかして描かれています。
もし、そこまで超能力による犯罪が世間一般に拡がっているのであれば、当然能力者の存在が社会的に問題視・危険視されているはずです。
ところが、このストーリーからはそういった事情は読み取れません。
宝石がいくら盗まれようともいつも同じ警備員が使われ、特に何の対策も立てられていません。
彼らの警備は「対能力者」にしてはまぬけを通り越しています。
普段から間抜けているのはどちらか一人にまとめて、もう一人は「対能力者戦に長けているものの相棒が相棒だけに調子が狂ってしまい失敗続き」という人物にしても良かったのではないでしょうか?
2人とも同じような人物では見ていて非常に退屈です。

警備員に限らず、他の人物設定、キャラ付けもかなり疎かです。「人物描写が浅い」をはるかに越えて「人物設定が浅い」のです。
例えば、タイトルロールにあたる4人の能力者も「個性」といえばそれぞれが持つ能力の違いだけで、4人の人格・性格には大きな差がありません。
外見こそ違えども、内面はみな同じで、4人全員が同じように騙され同じように行動します。
また、1人が何か失敗をしでかしたとき、なるべく早く仲間にそのことを教えなくてはならないのについ口をつぐんでしまう、そういう細かいところまで一緒です(能力の「ショボさ」よりもこの心の弱さがまさに「ウィンピー」ということなのでしょう)。

THE PLAN9の芝居ではこういった複数の人物が何の迷いもなく同じような考えや行動を一斉に取ることが多々あります。
本作でも紅一点は存在するものの、4人をまとめるリーダーやブレーンなどという役割は彼らに与えられていませんし、4人とも能力に対して起こりうる悩み、苦しみ、葛藤等はいっさい描かれていません。
もちろん、犯罪に対する罪悪感も薄いです。
さらにナミを除いては仲間といる場面しか描かれていないため、彼らがウィンピーメンである以外は何をして生活しているのか(どうやら十文字弁護士の家に居候している描写あり。ただし推定の領域を出ず。)、家族や友人はいるのか、どういう人生を送ってきたのか、そういった個人情報も背景も何一つ判りません。
4人が揃いの衣装で行動しなくてはならない理由も、彼ら集団が「ウィンピーメン」と云う名前を名乗っている事実さえ(劇中歌は別として)劇中では語られていません。
そういう設定のゆるい部分は役者の方がそれぞれ演技で補強することもできるのですが、それもできていないようです。

結局「能力」という個性を排除してしまうと、残った人物そのものには何の「面白み」も残っていないのです。

それは警備員や4人の能力者だけに限ったことではなく、弁護士も同じです。
四方(時間停止能力者)、飯星(壁抜け能力者)、丸山(変身能力者)、ナミ(念動能力者)、狩生(警備員)、瀬名(警備員)、十文字(弁護士)。
それぞれ演じている役者に個性があり、そこが面白いだけであって、作品上の人物は吃驚するほど「魅力」も「中身」もありません。
全員がすぐに他人の云うことを鵜呑みにしてしまう脳がスポンジでできているような人物ばかりで、それは悪意がある者も善意の人物も基本同じです。
人間としての重みや厚みがまるで感じられません。
作家が登場人物をストーリーを進めるための「コマ」としてしか見ておらず、「人間」として描いていないのでしょう。
作家が登場人物を「理解」していないのですから、当然役者陣もそれぞれ演じている役に魂をこめることができていません。

この世界は超能力者は存在しても特に問題視されず、そればかりか人の云うことを素直に信用し疑うことを知らない人間ばかりが存在するパラレルワールドなのでしょうか?
そういう世界があるとしてもそれは作者の頭の中だけに存在している世界です。
それなのに客には何の紹介も説明も無しですか?「云わなくてもファンなら察してくれよ」的な甘えか何かでしょうか?

せめてOPで「この世界には超能力をもつ能力者が存在する。特殊な能力ゆえ悪用し犯罪に走る者も少なくなく、特に昨今では超能力を使って宝石強奪を行う『ウィンピーメン』と名乗る集団が世間を賑わしていた。」程度のナレーションかテロップを入れるぐらいのことができなかったのでしょうか。

それに一人の謎の人物が複数の人間をある嘘の目的で集め、まんまと信用を勝ち取った後、最後に真の目的を暴露するというどんでん返しのパターンはもういいです。
特にここ数年のTHE PLAN9の芝居(「地上最低のショー」「仇男」「何かが正解です!」等)でこのパターンが使いまわされているので、十文字の奥さんの悲話をまともに信じた観客はおそらくいないでしょう。

とにかく、世界観も人物設定も底が見えるほど浅いのです。書ききれていないのです。
作家のこの世界やキャラクターに対する愛情すら感じられません。
「超能力モノ」が書きたかったのは判りますが、これらのキャラクターを使ってこの話で何を云いたかったのかテーマすら見えてきません。
ここまで心に何も訴えてこない超能力モノはいまどきの中学生でも書かないのではないでしょうか?

それにですね。
あの…飯星って必要ですか?
先に丸山が警備員に変身して扉の内側に入っているのに、飯星までがわざわざ能力を使ってまで扉を開けるため内側に入らなくてはならない訳が判りません。
(もちろん、彼を使って時間を追っての能力の低下を表現したいからでしょうが、その辺は作者のご都合主義でしょ?)
さらに、ナミがいるのですから警報装置だけでなく宝石の入ったケースを壊すことも簡単です。
結局飯星の存在って…見た目が面白いだけの出オチキャラにしか見えません。
「ナミはいつまでもステキだよ」と云う科白やナミの裸を見たがったことからナミに対し幾許の恋愛感情を持っているとも考えられるのにそこを広げようともされていません。
能力に関しては瀬名の能力も、彼自身というよりは腕時計の方に時間を止める力があるように見えてしまいます。
見た目年齢と実年齢の違いも特に生かされていません。自分も能力者であると嘘をつく十文字に呆れるところも「案外子供っぽいいい年した大人に呆れる19歳」と云うことを強調した描き方をしても良かったような…。
また、丸山の能力だけが他の3人(瀬名に関しては自己申告はしているものの実際に能力が低下した描写は特にありません)と違い低下しなかった理由も最後まで判らないままです。(→そのため何故彼らの能力が低下した真の理由も最後まで判らないままです。…って、えっ?!)
そもそも誰一人、能力が低下していることに不安こそすれ危機感を抱いていません。その理由も追究せず噂程度の「悪事をすれば能力は弱まる」という話に全員が納得し、それに対しての対策も練らないまままた同じ盗みを繰り返します。
超能力モノなのに彼らにはアイデンティティとも云える自分の能力に対する思い入れさえ無いように見えてしまいます。

台本の穴といえば、この警備もおかしすぎます。
予告したうえでこれまでいくつもの宝石が盗まれているのにほぼ素人の警備員2名だけに警備させるという設定にはかなり無理があります。
少なくとも赤外線装置、防犯カメラぐらいはつけるでしょう。
というか、犯行予告がありこれまでに予告どおりその犯行が起こっている以上、もはやこれは警備会社ではなく警察の領域でしょう。
「その点につきましては演者の人数上ご了承ください。」ってことですか?

さらにおかしなことに、ナミが暗証番号入力装置を破壊したため閉じ込められたはずの展示室に十文字は好き勝手に出入りしています。(←この部分、舞台では「抜け道があった」ことになっていますが、台本の段階ではこの矛盾に気がついていなかったようです。…え?マジで?久馬さん、大丈夫ですか?)
何のための暗証番号入力装置(←しかも室内からしか開けることができないんですよね、これ)?
密室じゃなかったんですか?
仮に抜け道を作るにしろ、車椅子の十文字にとってそれは容易なことではありません。
これは作者が警備室を物語上都合のいいように考えているだけですよね?

しかも、その十文字も云わなくてもいいような種明かしをわざわざあの時点で云いに来る必要があるんでしょうか?
「復讐」をより確かなものにするためとは云え、このベタベタな「冥土の土産に聞かせてやろう」的な流れはどうなんでしょう?
たとえ、能力が低下したとは云えあくまで「低下」。そんな能力者相手にのこのこ出向いていくから、股間(この回は股間でした)を銃で撃つハメになるんです。
十文字の描写は黒幕(?)としてはあまりにお粗末に思えます。
人物としてだけでなく「十文字に係ることの大半」がお粗末です。
十文字が4人についた嘘は4人のうちの誰かが十文字の過去を調べれば簡単に判るような嘘です。
お話上4人とも信じ込まなくてはいけないので4人とも疑ってもいませんが、随分と安っぽい嘘をついたものです。
その4人が真相を知り十文字に対して行った仕返しもセカンドオピニオンを受ければ解消されますし、そうでなくとも1ヵ月後には嘘と判ります。
簡単に騙されたうえ使い捨てられたにもかかわらず、1ヶ月しかもたないようなちゃちな復讐に大満足している4人は素直を通り越してバカにしか見えません。
また、過去における十文字の骨折もタイムラグがありすぎです。
原告のサイコキネスが手をかざしてから十文字が車を運転して裁判所を立ち去るまでどれだけ時間がかかると思っての設定なのでしょうか?
能力が使われたのが裁判所内ではなく十文字が車の運転中だったとしてもそれなら車を破壊したほうが良くないですか?
それに原告にそれだけの力があれば、金で雇われた弁護士ではなくまず無罪になった被告に復讐しますよね?
それ以外にも、時限爆弾による爆破事件が起こらなかった以上、生き延びた4人から報復されることを怖れ、何らかの対策を立てる必要があるのにそれもやっていません。
灘儀さんの演技が面白おかしければ十文字というキャラクターは中身がスカスカでもかまわないのでしょうか?

結局、十文字一人を「悪役」にするために
十文字は
・能力者の逆恨みによって事故に遭い両足が使えなくなる
・その能力者には直接復讐をせず何故かまったく関係のない能力者たちを集める
・そのために子供でもその気になれば簡単に見破れるような嘘をつく
・出入り口がなくなった展示室に車椅子で自由に出入りする
・云う必要のない真相を暴露する
・真相を語った以上はすぐにでも4人を始末すべきなのにしない
・復讐計画が成功したのを見届けることもなく立ち去る
・結果「余命1ヶ月」というこれまたすぐにばれるような癌告知(嘘とは云え、「癌」を単なる「不治の病」の代表として作品内で使っているだけで病状についての簡単な下調べすら怠っています。)を受ける
という歪みをいくつも生じてさせています。

それ以外にも
・何故か無能力者にも係らずサイコキネシスを披露する
と云う意味不明の行動までしています。

十文字には悪役としての憎憎しさも凄みもカリスマ性もなく、弁護士としても心の葛藤もありません。
また、宝石泥棒に関しての嘘の理由も真の理由も観客を納得させるだけの力をもっていません。
そんな十文字の嘘をなぜ4人が簡単に信じ、十文字にあれほど深い信頼を寄せていたのかは不明です。
「裁判で世話になったから」
「奥さんのためにと云う言葉に感動したから」
この2つの理由は判りやすいのですが、薄っぺら過ぎて心に響いてきません。
強いて云えば、「これはそういうお話だから、どうせお芝居なんですから納得してください。」ということなのでしょうか。
信じた理由が共感できない以上、裏切られた4人を見てもその心の痛みや悲しさ、悔しさが全く伝わってきません。

何度も書きますが、登場人物たちは自我も意思も思考力も与えられず、面白くするためだけに神なる作家の手によってゲームボード上のコマのように好き勝手に動かされているかのようです。
作家が一人一人の登場人物の視点に立ってこのストーリーを描かれているとは思えません。

とにかく今回、台本の出来はひどすぎます。
薄っぺらで穴だらけです。

「芸人の舞台だから」と云い逃れることができますが、かつてTHE PLAN9が目指した「演劇と笑いの融合」が今では逆に「演劇と笑いが乖離」しているように見えてしまいます。
「演劇と笑いの融合」であれば作家も演出家も役者も全員が団結して「芝居」も作り、「笑い」も作らなくてはなりません。
ところが、本作では「演劇担当」の久馬さんが書いたこのままでは笑えない台本を「笑い担当」としての灘儀さんを中心とする役者陣がいかに笑いに持っていくか奮闘しているように見えました。
例えて云うのであれば、本作における「演劇」は野菜くずを刻んだようなもの、その上に多少手の込んだ「笑い」というドレッシングを振りかけて疑うことを知らない素直なお客さんに「美味い美味い」と、云わせているかのようでした。

このようにストーリーもキャラクターも面白くないため、その分役者が頑張って「笑い」を取っていますが、役に入りこんでこそのアドリブやお遊びではないので「笑い」だけが浮いています。

灘儀さんと浅越さんがストーリーの流れを一旦停止して「金玉」を長々と掛け合うことで積極的に「笑い」を取りに出なくては「爆笑」が起きないのがこの芝居です。
その間、同じ板に立った3人は演技することを放棄し客と同じ視点で笑いをかみ殺して突っ立てるだけでした。
受身である観客とは違い同じリング(つまり舞台上でということです)の上に立っているのに何故参加もせず客席同様傍観しているのでしょうか?
この騒動の張本人に当たるナミを演じる牧野さんでさえ2人の会話を笑って見ているだけで積極的にその中に割って入ろうとはしません。
実際、灘儀さんと浅越さんの掛け合いはダラダラしていてテンポが悪いので、面白くない人にとっては正直苦痛でしかありません。
面白いのだとしても会話の内容や言い方が面白いのではなく、「無駄にダラダラと会話が続いている異様な状況」そのものが可笑しいだけのように見えます。
今回も灘儀さんは途中から「十文字」ではなくカツラを被って車椅子に坐っている「なだぎ武」となっていました。
浅越さんが面白いのは「飯星」と云うキャラが面白いのでも「浅越さんが演じる飯星」が面白いのでもなく「浅越さん」のタイツ姿や立ち居振る舞いが面白いだけです。
役を演じて役の心の動きや行動で客を笑わせるのではなく、敢えて役者が台本または役から少しハズれ、アドリブでおかしい言動を取ることでお客さんを笑わせているだけのように見えました。
2人の会話が面白いのは、それを灘儀さんと浅越さんが演じているからであって、この舞台、そして台本そのものははたして面白いのでしょうか?

総括すると、お客さんは「W−MEN」という物語を見て笑っているのではなく、舞台に立っている芸人さんを見て笑っているだけのように私には思えました。
もはや、THE PLAN9の芝居は「ストーリーは何だっていいんです。ザ・プラン9の4人が出てさえいれば面白いんです。」という芝居なのかもしれません。
普段アドリブは入れないチョップリンさんがアドリブを入れていたと、その日のエンドトークで仰っていましたが、率先してアドリブでも入れなければ笑いは取れませんよ、この台本では。

芸人ユニットの芝居で客席の大半を締めるのがザ・プラン9のやっている芝居でなく芝居もやっているザ・プラン9を見に来るファンだからこそ喜んでもらえるものの、今年で9周年、本公演だけで27回は2時間弱の舞台を続けている方々がこのような芝居・演技しか見せられないのはどういうことなのでしょうか?

コントであれば、詳しい世界観も人物設定も必要ないかもしれません。
ストーリーにほころびがあってもかまわないかもしれません。
しかし、かつてTHE PLAN9が目指していた「誰もやっていない新しい笑い」はこんな演劇ともコントとも呼べないような代物だったのでしょうか?

ところで、上演後一緒に来た友人と「面白かった」と顔を高潮させて語り合っているファンや、ブログやTwitter、mixiに絶賛の言葉を書き綴っているファンの方々が、私には十文字の嘘を信じて疑わなかった4人の能力者の姿に重なって見えてしまいました。
この2年ほどでTHE PLAN9が発信するストーリーを自分なりに解釈し読み取ろうとするファンが徐々に淘汰され激減してしまいました。
いろいろ解釈されることを嫌われた結果です。
何の引っかかりもなくまっすぐに自分達の笑いを受け入れてくれる観客ばかりを求めた結果ですので、THE PLAN9ののメンバーもさぞ満足していることでしょう。

自分達の力で劇場を押さえる必要もなく、スタッフを集める心配もなく、公演があると聞けばファンがチケットを争うように求め、(「ザ・プランの劇」というより)「劇をするザ・プラン9メンバー」を喜んで見に来ます。
他の小劇団に内容の点で遠く及ばなくても「所詮芸人の舞台だから」と云う言い訳もできますし、ファンも大目に見てくれます。
そんなこんなでザ・プラン9はザ・プラン9であることにすっかり胡坐をかいているように私には見受けられます。

最後に、主題歌、テーマ曲を聴く限り、かなりアニメや特撮のヒーローものを意識されて作られており、今回も本当に素晴らしい曲ばかりでした。
ここまで(客入れで使われた「ジャッカー電撃隊」「宇宙鉄人キョーダイン」「大鉄人17」などといった昔懐かしい特撮モノのOP・ED曲を含め)音楽面からこの作品を特撮ヒーローものとして推しているのですから、OPも含め演出にもそれに応じたこだわりを見せてほしかったです。。
例えば、
OPとEDはテレビアニメや特撮風のカッコいい映像(それこそ仮面ライダーWのOP映像のパクリでもいいような…)を流す
暗転のときは歌ではなく(これはこれで面白い試みでした。でも「大阪ハリケーン」と似てますね、曲調)アイキャッチでカッコよく決める
「W−MEN〜ウィンピーメン」のタイトルロゴを作る
など、それぐらいのこだわりがあってもよかったのに…。
また、音楽面では曲、使い方含め日本の特撮モノを意識していながら、「W−MEN〜ウィンピーメン」と云うタイトル、フライヤーやポスターのイラスト、はたまた超能力モノであることや黒幕が車椅子と云う設定はアメリカンコミックスまたはそこから派生したハリウッド映画を意識しており、その辺のズレもこの作品に対しマイナスに働いたのかもしれません。
特撮を意識するにせよ、アメリカンコミックスを意識するにせよ、覚王山さんが「功夫ジョン」で見せた既存カンフー作品への尊敬の念や愛情に類するものをこの作品からは感じとることができませんでした。
もともとヒーローものに思い入れがないのかもしれません。
(ていうか、この「W-MEN」のストーリーの元ネタは「キャッツアイ」ですよね。)

ところで、エンドトークでDVD「何かが正解です!」が売れないとこの舞台のDVD化が危ないみたいなお話をされていましたが、この作品、映像として残すことがTHE PLAN9の今後にとって良いことなのかどうなのか疑問です。
下手に残さない方が良いのでは…。






(補足)
でも、「あからさまな嘘がやっぱり嘘」と云うのではあまりに芸がなさ過ぎます。

ここは「奥さんの形見の宝石を収集している」と云う
おそらく観客の誰一人信じていないような「あからさまな嘘」が
「嘘偽りない本当」であったほうが
よりどんでん返しとなったのではないでしょうか。
(特にザ・プラン9の舞台を何度もご覧になっている人には)

能力者の協力により想像していた以上に
たやすく何の苦労もなく宝石が手に入ることで
本人も予想していなかった心の奥にある物欲を刺激し
最初にあった十文字の「妻の形見収集」という崇高な目的が
徐々に醜く歪んでしまい
最終的には
「(妻とは関係ない)より多くの宝石に手を出してしまう」こととなる
そういう欲に溺れてしまう一方で
最初にあった目的が汚されてしまった後ろめたさを
勝手に(それを簡単にできてしまう)能力者のせいにし
逆恨みし彼らを強く憎んでしまう
そんな一人の人間の中にある相反する善と悪のせめぎあい
といった複雑な心情を描いてみても良かったのにと思うのですが
そうなると、「判りやすいストーリー」や「芝居より笑いを求める」観客に
はたして伝わるかというとこれが難しいんですよね。
「演劇」ならそこまで描いたと思うのですが
(今の)ザ・プラン9なら
「あからさまな嘘はやっぱり嘘だよ〜ん」でも
お客さんは来てくれるのですから。

キーマンである十文字のキャラがシリアスであればあるほど
「きんたま」のバカなやり取りにギャップが出て
より笑いが強調されたと思います。

こういったメリハリや緩急、強弱にも
欠けているように見えてしまうのが
残念です。


<追記>
この舞台に欠けているものについて語られているのが
このポッドキャストかもしれません。

サタデーナイトラボ「喜劇特集・特別講師:三宅裕司!」【前編】

サタデーナイトラボ「喜劇特集・特別講師:三宅裕司!」【後編】

アドリブも含め120%の体勢で本番に挑んでいるのが三宅さんの喜劇。
台本に「稽古の必要がないガチ」の部分を残し最後まで作りこまないまま、
80%ぐらいの仕上がりで舞台にあがり
後の20%をでたとこまかせアドリブ演技で笑いを取ろうとしているのがザ・プラン9の本公演。

どちらが観客を楽しませるか判りませんが、そのアドリブでさえ会話の力ではなく
だらだらと時間を掛けることで観客を笑わせているのはあまりに芸がないのでは?


[参考]
「リング」「らせん」の作者、鈴木光司さんがある対談でこのようなことを述べておられます。
ご参考までに

「小説を書くなんて、やはり自分で自分の世界をつくってしまうようなもんですから、『リング』だったら、『リング』の中でしか通じない決まりごとってあるわけですよ。これはもう現実の世界とは重ならないですよ。だって見た人間を一週間後に殺してしまうビデオテープなんて、現実にあるわけないですからね。」
「でも僕のこのつくり上げた世界の中では、それが存在するんだ。作家というのは、自分の独自の世界をファンタジーでつくり上げちゃうわけですよ。そして、その世界を読者が共有できれば、読者はある程度面白がってくれる。でも書き手が創り上げた世界に読者が入ってこれなかったら、その小説はやはり読者には伝わらない。その点から言うと、細部までしっかりと構築して世界をつくり上げてもらいたい。」
(「波」 2001年12月号より)

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