2010/2/18

「W−MEN〜ウィンピーメン」補足  しばいデイズ

前回の記事で






この作品が「1人の人物が複数の人間をある嘘の目的で集め、まんまと信用を勝ち取り思い通りに彼らを動かした後、最後に真の目的を暴露するというどんでん返しのパターン」だったらレビューは書かない!

と、書きました。

それについて少し補足いたします。

以前、「仇男」について「大阪公演まであと2週間」という記事の中で
http://moon.ap.teacup.com/hitsujikai/780.html
という記事の中で
「この作品、どうしても一昨年上演された『地上最低のショウ』を比べてみてしまうようです。」
と書いたことがあります。

さらにこの2作品に今回の「W−MEN〜ウィンピーメン」を加えてみてみると
「地上最低のショウ」(2006年中之島演劇祭出品作品)
「仇男」(2008年本公演)
「W−MEN〜ウィンピーメン」(2010年本公演)
のストーリー構成=「起承転結」はほぼ同じと云うことが判ります。

まずは「地上最低のショウ」
起→「サーカス団長」が郵送した招待状によって「複数の男女」がサーカスに集められる
承→団員に逃げられ困窮している「団長」を助けるため「複数の男女」は団員としてサーカス団で働くことになる
転→実は「団長」は過去に「複数の男女」から陰湿極まりないいじめを受けたことがあり、その復讐のため彼らを集めたことが判る
結→「団長」の復讐は失敗に終わり、「複数の男女」は助かる

「仇男」
起→「ある役人」が無作為に択んだ「複数の男」がビルの一室に集められる
承→「役人」の指示のもと、「複数の男」は自分の仇を討つため同じ部屋で時間を過ごす
転→実は「役人」は過去に病気で亡くなった娘のための募金活動を「複数の男」に馬鹿にされたことがあり、その復讐のため彼らを集めたことが判る
結→「役人」の復讐は成功し、「複数の男」は全員死亡する

そして、今回の「W−MEN〜ウィンピーメン」
起→「ある弁護士」によってかつて彼が弁護して無罪を勝ち取ったことのある「複数の超能力者」を集められる
承→「弁護士」のため「複数の超能力者」は宝石泥棒を働くことになる
転→実は「弁護士」には超能力者の手によって下半身不随となった過去があり、その復讐の為に「複数の超能力者」を集めたことが判る
結→「弁護士」の復讐は失敗に終わり、「複数の超能力者」から仕返しされる

以上、起承転結に分けてストーリーを追ってみましたが、いかがでしょう。

起→ある偽の理由から複数の人間が1つの場所に集められる。
承→集められた者同士、交流を深める。
転→何故彼らが集められたのか本当の理由が暴露される。

結末はそれぞれ異なりますが、「転」までの流れは殆ど同じです。

…相変わらず「考えすぎ」な考察で申し訳ございません。
それを承知で以後の文章にお付き合いいただければ嬉しいです。

話を戻します。

「仇男」では「転」と「結」の順序が逆であったり、「W−MEN」では「起」が「承」のなかに含まれていますが、もはやこの3作品は「三部作」とまとめてよいのではないでしょうか?
「地上最低のショウ」−「銀行ノススメ」−「仇男」−「室内の人々 a room」−「W−MEN」と云う流れのなか、2年ごとにこのパターンが使われているため、まるで久馬さんが手を変え品を変えこのストーリー構成を極めようとしているようにさえ見えてきます。
(「a room」も1つの部屋にそれまで面識になかった人々が集められ、画家の嘘話をきっかけに全員が仲良くなったところで真実が暴露されるという点においてはやはり同じ流れを汲むストーリーなのかも)
云うなれば「復讐譚三部作」となるのでしょうか。

さて、この三部作で大きく異なるのは「結末」です。

おそらく「地上最低のショウ」では出演者の一人にバッファロー吾郎の木村明浩さんを迎えているため、「人が死ぬ」結末を回避したのでしょう。
木村さんが「久馬作品は人が死ぬから出たくない」と仰っているという話はファンの間でも有名な話です。
そのため、「地上最低のショウ」で「壮絶ないじめに遭い深く心に傷を負った男が十数年後も立ち直れず、いじめた相手に復讐をしようと画策したところ、相手は男のことを覚えていないばかりか、計画は途中で頓挫し復讐を果たせないまま『加害者』として警察に連行されてしまう」と云うなんともやるせないストーリーとなってしまいました。
この作品のもっとも残酷なところは「いじめの内容」でも「いじめ被害の深さ」でもなく、復讐が失敗に終わり連行されていくかつてのいじめっ子を見送りながら、いじめた側が「まさか…あんなんなるまで追い込んでしまっていたとは。」「ほんま反省ですよね。ボクら、ただふざけてるだけのつもりやったのに。」と嘯いた直後にはそんないじめの事実もいじめられっこの存在も「なかったこと」にして楽しくはしゃぎだす大団円にあると思います。
その残酷な役を演じた一人が木村明浩さんです。
私にはこの残酷なシーンが木村明浩さんのために用意されたように見えます。
いじめ被害者の復讐とはかつてのいじめっ子たちを皆殺しにすることでした。
この作品では人の死を回避する必要があったため、復讐は今一歩のところで失敗します。
このとき観客が見たかったのは被害者の永遠に消えない心の痛みを負わせた加害者が己の罪を深く反省する姿ではないでしょうか?
ところが、「地上最低のショウ」はそんな甘ったるいことはしません。
結果的には人は死にませんでしたが、木村さんが演じるいじめの加害者は悪意ないまま非人道的な言動を取ることになります。
復讐されずに済んだかつての加害者は、被害者が正体を明かすまで「自分たちが犯した罪=いじめ」をすっかり忘れており、真相を知った後はもすぐにまた「いじめ」という過去を「自分らにとってはあれは遊びの延長であっていじめではなかった」と葬ってしまうのです。

木村さんが出演したことで「復讐」を完遂できなかった「復讐ストーリー」はそのまま「仇男」に持ち越されます。

「仇男」では「地上最低のショウ」の鬱憤を晴らすかのように「復讐」は大成功を納めます。
「復讐」が成功するということは、殺人が行われその犯人が無事逃げおおせたということです。
ところが、これも見ている観客はすっきりしません。
何しろ犯罪者を野放しにしたまま大団円を迎えているわけですからすっきりできないでしょう。
しかも肝心の「復讐」が逆恨みに近い「復讐」であったため、余計に結末に対してモヤモヤしたものが残りました。

ただ、私にはこのラストシーンこそが本来「地上最低のショウ」で描きたかったものではないのかと思うのです。
他人にとっては「悪意のないささいなこと」でも当事者にとっては万死に値する時があるのだということ。
「仇男」は、「人の死」を描かないためラストを変えざるおえなかった「地上最低のショウ」の焼き直しのように見えたのです。

さらにダークなラストシーンは続く「室内の人々 a room」でも使用されましたが、「仇男」まであった「心の中に潜む闇」はこの作品では描かれていません。
この作品の殺人鬼は単なるサイコパスとして描かれています。
この「観客のみなさんはこういった意外な『結末』がお好きなんでしょう?」といわんばかりの「a room」のラストシーンに対する評価はあまりよくありませんでした。

ふとした瞬間に顔を覗かせる人間のダークサイド
たとえば
「地上最低のショウ」であれば、いじめた側の「いじめ」に対しての無関心さ。
「仇男」であれば募金に対する無理解に対して沸き起こった殺意。
それらはファンが書き記すレビューや観劇レポで余り大きく取り上げられることはありませんでした。
むしろ常に久馬作品で注目されるのはきまって「伏線の緻密さ」や「二転三転する展開」、そして「意外なオチ」のように思われます。
そういうレビューのなかでは久馬作品に対してよく使う「ダーク」と云う言葉さえ「心の闇」的ものを意味せず、まんま「人の死」として捉えられていることがあります。

THE PLAN9本公演に足を運ぶ観客は「笑い」特に「THE PLAN9でしか見ることのできない計算された緻密な笑い」を見に来るのであって「人の心の闇」を見に来ているのではないのでしょう。

「a room」でのダーク(殺人と云う意味での単純明快なダーク)なオチの失敗から役1年、これまでの舞台経験を踏まえたうえで作られたのが「W−MEN〜ウィンピーメン」のように思えます。

はっきり云えば、被害者のやるせなさと被害者の真の残酷さを描いた「地上最低のショウ」、加害者・被害者の心の中に巣食う闇を描いた「仇男」といった前2作と比べると、この「W−MEN〜ウィンピーメン」は何も訴えかけてくるところがありません。
(私にとっては)残念ながら前2作にあった「現実世界に対する人畜無害な構えを少し脅かすような何か(本ブログ「映画に限ったことではありませんが」参照)」がこの作品にはありませんでした。

「W−MEN〜ウィンピーメン」では「地上最低のショウ」と同様、「復讐」は失敗に終わります。
が、そのまま終わるのではなく「復讐」をたくらんだものが「報復」を受けることになります。
ただ、その「報復」は驚くほど手ぬるいものです。
「復讐」にも「報復」にも以前のような「人の心の闇」が見えてきません。
先の作品がダーク展開だったことを払拭するかのように全編ゆるい感じで話が進みます。
それはまるで「心に巣食う闇を描いたところで観客は求めていないのだから」とでも云っているかのように、この作品では人間の心の醜い部分までがライトに描かれライトに裁かれます。

とにかく今回の登場人物たちはこれまでの作品以上に他人の言葉をあっさりと信用します。悪役も含めとても素直に行動します。
その姿はなんとなくですが、THE PLAN9本公演に訪れる観客の姿を投影しているかのようです。
これはTHE PLAN9本公演に限らないのかもしれませんが、客席を見ていると「純粋」なお客さんがもの凄く多いように思われます。
もともと久馬さんの描く登場人物は疑うことを知らない「純粋」な人物が多いのですが、それに呼応して観客・ファンも「純粋」な人が集まってきているような気がします。

もしかすると、そういう観客の方々のためにこの作品は描かれたのかもしれません。

終演後、
「人が死ななくて良かった!」
「ダークな展開でなくて良かった!」
はたまた、これまでと同じどんでん返しのパターンであるのにも係らず
「さすが久馬さん!意外でステキなラストでした。」
と、澄んだ目をして喜んでいるお客さんの姿を見るにつけて「こういうお客さんの為に今回の作品があるんだろうなあ」と、感慨深くなりました。

同じようなストーリー展開
人が死なないハッピーエンド
判りやすい伏線
を並べるだけでこんなにも簡単に観客が楽しみ喜び絶賛してくれるのなら、頭を捻って苦しんでまで今まで以上の作品を作らなくてもいいのではないでしょうか?

一部のファンの方は「劣化」と云う言葉を使われることがありますが、今回の新春公演を劇場で見た限り作品が劣化しているというよりは「この程度の作品でもお客さんは喜んでくれる」ラインを同じ話を3回に渡って上演することで徐々に見極めているように思えました。
(実際は単に同じストーリー展開で3つの違う結末を持つ作品を描きたかっただけなのかもしれません。または「地上最低のショウ」は中之島演劇祭出品作でしたので見に来れなかったお客さんのために「仇男」を本公演で上演し、4人になってからのファンのために新たに「W−MEN」を上演したのかもしれません※。)

あれほどオチまでの展開に無理があり一部のファンが離れるきっかけとなった「a room」でさえ、ネット上では「面白い!」と、賞賛されたのです。

ある程度緻密で、ある程度ストーリー展開が二転三転し、伏線をきちんと回収さえすれば、後は役者が「笑い」の部分を十二分に補足してくれます。
芝居ではなく笑いを見に来る観客を満足させるのであれば、「人間」を追究することのないライトなコメディで充分なのでしょう。

ただ、2年前「楽な客だ」と評されたTHE PLAN9が客だけでなく作品もまた「楽」になっている気がしないでもないです。

それでも、本当にダークなもの=人間の心の闇を追究すれば書いている本人にとってかなりの負担を生じますし、心だって蝕まれかねません。
ダークなものはさらっと書いてそれで観客が楽しめるのあれば、作家にとっても観客にとってもこれほど喜ばしいことなのでしょう。

わざわざ劇場まで笑うために足を運んでくださったお客を何もぞっとさせて帰す必要はないのですから。

このままいけば、最終的には本公演はTHE PLAN9版吉本新喜劇となるかもしれませんね。



<補足の補足>
「1人の人物が複数の人間をある嘘の目的で集め、まんまと信用を勝ち取り思い通りに彼らを動かした後、最後に真の目的を暴露するというどんでん返しのパターン」では

例えば、上記3作品のように復讐計画の主謀者が復讐する相手を騙して集める際に「嘘の理由」を必要とします。
その場合「嘘の理由」を「復讐する相手」そして「観客」にどれだけ信じ込ませるかがストーリー上とても重要になります。

ところが、「W−MEN」東京公演ではこの大事なシーンで肝心の主謀者が何度も「私だけが生き残って…」と天丼することで「会場(舞台上・客席含めて)の笑い」を取ろうとしていました。

最初の「嘘」をどれだけ「本当のこと」と思わせるかにこの後のストーリーがかかっているのにどうも「笑い」の方を率先してしまったようです。

「とにかくお客さんを笑わせたい」というお気持ちからなのでしょうが、シリアスなところはシリアスに徹してこそその後に来る笑いが際立つのでは?
あそこまで「笑い」をいれられると、いささかサービスが過剰のような…。

役をどうモノにするかということより演じる役でどう笑いをモノにするかに重点が置かれているように見えてしまいました。
確かに笑いを獲ることが最重要事項かもしれませんが、ストーリーの流れも大事にして欲しいと思います。


「考えすぎ」「素直に見ようよ」と思われる方も多いと思いますが、好きなだけに何も考えずに見ることができないんです。
ごめんなさい。
端から見ると「W−MEN」でのザ・プラン9はかつて頭脳コント集団と呼ばれていたのにも係らず「金玉」という(計算された下ネタではなく、だからといって下品でもない)小学生レベルの下ネタで笑いを取り、見ているお客さんも「金玉」で笑わされているのに一方では「ザ・プラン9って賢っ!」と思っているように見えてなんだか不思議です。



※これも「もしも」の話ですが、中之島演劇祭という特別な演劇イベントで上演されたため「地上最低のショウ」を見に来れなかったお客さん、特に関西圏以外にお住まいのお客さん、そういったお客さんに改めて見てもらうために同じようなコンセプトの「仇男」を本公演で上演したとするならば、今回の「W−MEN」はその「仇男」を生で見ていないファン=メンバーが4人になってからのファンに向けて作られたとも考えられるわけです。
同じコンセプトの作品を2年ごとに3回も見せられ「もういいよ!」と思っている私のような観客はこのへんで淘汰して、これからは「4人のザ・プラン9から好きになったファン」のために頑張っていかれるのがメンバーにとってもファンにとってもいちばん良いことなのかもしれません。
どうも「W−MEN」は「かつてのファンがザ・プラン9から離れることになったもの」で且つ「今のファンが愛してやまないもの」がぎゅっと詰め込まれている感じがします。
まあ、これはあくまで私感ですが…。

ともあれ、私もそろそろTHE PLAN9潮時のような気がします。

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