今日は9月15日!そう
関ヶ原の戦いが起こった日ですね(まー旧暦だけどw)
まーそれだけで特に何もないけど・・・
そーいえばひこにゃんに対抗してナント彦根ではこんなキャラも生まれてるらしい
その名も
しまさこにゃん!!
その名からもわかるように島左近をモチーフにしたキャラみたいです
しかも「しまさこにゃん」がおったらということで「いしだみつにゃん」もいるらしいw
井伊家やから猫にするのはわかるが、こっちも猫にする必要ないんじゃないの?
まーカワイイからええかw
ということで久々に戦国のことでも書こうかな
完全なる自己満の世界なんで興味ない人はやめちゃってください
ということで今日は
島左近について書きます
左近は大和の国に生まれ、筒井家に仕えていたというのが通説ですがイマイチわかっていません
そもそも左近という名前だって通称で本名は清興だったり勝猛だったりよくわかってないようです
そんな謎キャラの左近は左近の画策(?)で「洞ヶ峠を決めこ」んだ山崎の合戦後、順慶が没し
後を継いだ定次との折り合いが悪くなったようで筒井家を出奔します
そこで浪人生活を送った後運命の
石田三成との邂逅を果たします
ご存知のように太閤検地を実施したりと政治・財政面での頭は近江人よろしく抜群にキれる三成でしたが、小田原攻めでの失敗などイマイチ戦での駆け引きには長けていませんでした
戦国最強と謳われた武田家にも属していたとの記録も残っている左近は武勇・軍略にも他に名声が及ぶほどの人物でしたから、三成としてはのどから手が出るほどほしい人材だったわけです
そこで三成は当時の所領4万石だったにもかかわらず2万石で左近を獲得しようとします
そしてこの破格の待遇に感激した左近は三成に忠誠を誓ったとされてます
ここに左近は三成の軍師となり「みつにゃん」&「さこにゃん」の主従コンビの誕生したのです
秀吉の死後に三成が大阪城下の繁栄ぶりを周囲に吹聴していたところ
左近は帰邸後、三成に王侯のいるところが繁栄するのは利によって人が集まってくるからであると説いた逸話は有名です
このように世の流れにも敏感な左近の周囲も秀吉の死後変容していきます
そう、家康の台頭です
これに対して敏感に世が乱れると察知した左近は
家康暗殺計画を三成に大義名分がないとし受け入れられずも敢行しますが失敗します
この「暗殺」は小説やドラマでも色々取り上げられる程有名ですね
その後家康の三成への蟄居勧告後
佐和山会議により直江兼続との画策した挟撃戦略で対家康を決定的なものにします
そして舞台は関ヶ原へ
上杉討伐からの急反転で岐阜へ引き返してきた東軍は美濃赤坂に着陣します
岐阜城も落ち、家康がやってきたということで西軍の士気が落ちることを憂いた左近は兵を率いて東軍の中村・有馬軍を破ります
所謂杭瀬川の戦いです。詳細述べてたらきりないんで割愛しますが、ここでの左近の采配はスゴイです
杭瀬川の戦い勝利後、左近は浮き足だつ東軍陣に夜襲をかけることを進言しますが
三成の正義に反すると言う意見により退けられます
もしここで島津・小西勢と共に夜襲をかけたらどうなってたんだろうと思うの私だけですかね〜w
こうして関ヶ原の戦いを迎えるわけです
最初は有利に戦っていたものの、あの小早川の裏切りで西軍は総崩れ
左近も黒田長政隊と激戦を繰り広げるも銃弾により負傷し陣に引き上げ
小早川の裏切りで戦況が苦しくなると黒田隊に突撃し討ち死にしたと伝えられています
しかし生死についてイマイチ不明でよくわかってないというのが実態のようです
と、まーザーっと島左近について述べてきましたが
私としては左近の生き様から世事の読みの大切さ、そして
貪欲さというものを学ばなければならないと思いますね
諺にもなる(あんまりいい意味じゃないけど・・・)山崎の合戦での戦況判断、暗殺・夜討ち上等の精神!
先手先手、そして何が何でも勝利するという心構えが伝わってきます
確かに三成のような建前も大事です。むしろソッチの方に後々評価される方が多いでしょう
しかし、その貪欲さなければ何も生まれません
何事に対しても流れを読み、その上で積極的な行動を取るという精神が大事ことを左近にこれを書くことで教えられたような気がします(何かよく言ってることがよくわからん気もするが・・・)
小泉さんなんかは左近に近い人なんじゃないか?
もうちょっと詳しく書きたかったんやがな〜
何か薄っぺらい、よくわからんもんになってしまった気がする・・・
何故『決戦』での左近の兵数はたったの2000!?

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