2007/7/29 7:28
東西文化の融合と平和共存 国軍(Reichswehr)
戦後日本が世界にずっと発信してきたメッセージは「平和共存」でした。
「東西文化の融合と平和共存」は、私の出身大学である大東文化大学の、大東文化学院以来の永遠のテーマでもあります。「東西文化の融合」は戦前の「幻の東京万博」の精神でもありました。少し宣伝になりますが、それを「漢文文化」を源流として実行するのが大東文化学院以来の伝統なのです。戦前は五族協和と言い軍事的に実行してきたことが問題だったわけですが、「漢文文化」が源流ならそれは平和的に行われます。
私の時代は入学式に論語をOBの方が配っておられました。高校時代に岩波文庫版で読んでいましたが続いてほしいよいことだと思います。
戦前は国会決議により作られた学生へは官費支給の事実上の官立大学であり、院長も華族や有名な教育学者が多く、漢文に強い教育者を育てる「師範学校」の一面がありました。
そのた軍国主義者の拠点と見なされ、空爆のターゲットとなり、戦後も助成金を大幅に減らされ苦しんだ伝統もあります。その苦労は筆舌に尽くしがたいものがあったと言います。
東大と早稲田出身の漢文学者が開学当時の二大勢力で、しょっちゅう漢文を通じて喧嘩をするのは、新聞にたまに載るぐらいの名物であったそうです・・・平和な時代の話です。
師範学校の一面があったので、私も少し教育訓練分野にある可能性もあったということですね、教師嫌いで聖人君子でない私も信じられませんが・・・今もって向いている気はしません。
日本の師範学校の伝統は、各教育学部に長く残ってほしいものだと思います。
教育訓練の職業能力開発総合大学校も師範学校の一面があります。戦後教育学部として再出発した師範学校が多いですが、師範学校の伝統は大切にいるところが多く、今後も大切にしていってほしいと思います。戦前も教育のお雇い外国人は、森有礼の推挙で明治初年に来日したバージニア州生まれの、マリオン・スコット(Marion McCarrell Scott 1843-1922)というアメリカ人でした。(ネットで百科@homeより)
東京高等師範学校で欧米式の一斉教授法や、ペスタロッチ主義の直感教授法を日本に導入しました。戦前から日本の教育はアメリカ式なのです。
大東文化学院は立教大学の正面にかつてあり、戦時中の空襲で、立教大学はきれいに焼け残っているのに大東文化学院は敷地は小さいのに丸焼けで、あまりの見事さにびっくりしたと聞いたことがあります。
図書館には国の保護があったので多くの貴重な資料があり、空襲のとき貴重な絵巻物が、焼けながら夜に宙を舞っていたのを職員が懸命に消して守ろうとしたといいます、それでもかなり焼けてしまったと聞いております。図書館学講座ではないOBから聞いた話です。
立教大学は図書館旧館の立派な建物が残っておりますが、戦火を逃れた大事な建物ですので末永く大切にしてほしいと思います。資料はあまり入りませんが本当に大学の精神を象徴する建物だと思います。
戦後外地から引き揚げてきたOBの人が、私は経済なので価値がわかりませんが、漢文のきわめて貴重な資料を図書館司書さんに頼んだら、奥から出してきてくれて感無量だったと言っておられました。それが戦後の出発点だったという文を読んだことがあります。名前を言えば誰でも知ってる漢文の大家の先生ですが、「焼け残ったのか・・・」という気持ちであったと思います。「図書館司書とは大切な職業なのだなあ」と思いました。私は戦火の中で本を救おうという気持ちは持てないと思われ、先人の偉大さに本当に敬意の気持ちを持っております。
先日、京都の立命館大学が中国から四庫全書を贈られ、保管場所に困っているという記事を読みましたが、本当に貴重なものか確認して、ぜひ大切にしてほしいと思いました。幻の永楽大典の一部が日本で見つかればよいのですが・・・私の夢です。
師範学校は今は師範大学と言うべきなのでしょうか?その精神は本当に民主化させながら長く残ってほしいものだと思いました。
(追加)
大東文化学院の元となった戦前の学部は、昭和13年にできた「修身漢文科」、「国語漢文科」、「東亜政経科」の三科でした。先の二科は基本として「師範の育成」にありましたが、東亜政経科のみいささか異質で、目的が外地において不足している日本人官吏と経済人の育成することにありました。
戦後すぐの頃外地を失ったため、存続させるかどうか議論されたということですが、結局存続させることに決定し、現在の経済系学部の前身となりました。私が学生であった当時はまだ大東文化学院時代のOBが大勢まだまだ元気でした。官吏はやめても守秘義務があるので口が硬いのですが、さぞかし苦労されたであろうことは雰囲気で察せられました。
スポーツで鍛え上げられた連中も、あの穏やかな中に心の強さがある大人(たいじん)のような雰囲気の先生方を、ひじょうに苦手にしている雰囲気でした。大昔は文道をわきまえない集団が、山野で暴れまわるような事件もあったそうですが、大学当局がすぐさま解散を命じたと聞いています。私もあの実体験からくる凄味のようなものには雰囲気には「絶対勝てない臭い」がしました。戦前はドイツ経済学が中心だったそうです。戦後は英米系経済学が中心になりましたが、戦前の雰囲気にまだ少しでも触れられる時代に大学にいられて、私は幸福でした。
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「東西文化の融合と平和共存」は、私の出身大学である大東文化大学の、大東文化学院以来の永遠のテーマでもあります。「東西文化の融合」は戦前の「幻の東京万博」の精神でもありました。少し宣伝になりますが、それを「漢文文化」を源流として実行するのが大東文化学院以来の伝統なのです。戦前は五族協和と言い軍事的に実行してきたことが問題だったわけですが、「漢文文化」が源流ならそれは平和的に行われます。
私の時代は入学式に論語をOBの方が配っておられました。高校時代に岩波文庫版で読んでいましたが続いてほしいよいことだと思います。
戦前は国会決議により作られた学生へは官費支給の事実上の官立大学であり、院長も華族や有名な教育学者が多く、漢文に強い教育者を育てる「師範学校」の一面がありました。
そのた軍国主義者の拠点と見なされ、空爆のターゲットとなり、戦後も助成金を大幅に減らされ苦しんだ伝統もあります。その苦労は筆舌に尽くしがたいものがあったと言います。
東大と早稲田出身の漢文学者が開学当時の二大勢力で、しょっちゅう漢文を通じて喧嘩をするのは、新聞にたまに載るぐらいの名物であったそうです・・・平和な時代の話です。
師範学校の一面があったので、私も少し教育訓練分野にある可能性もあったということですね、教師嫌いで聖人君子でない私も信じられませんが・・・今もって向いている気はしません。
日本の師範学校の伝統は、各教育学部に長く残ってほしいものだと思います。
教育訓練の職業能力開発総合大学校も師範学校の一面があります。戦後教育学部として再出発した師範学校が多いですが、師範学校の伝統は大切にいるところが多く、今後も大切にしていってほしいと思います。戦前も教育のお雇い外国人は、森有礼の推挙で明治初年に来日したバージニア州生まれの、マリオン・スコット(Marion McCarrell Scott 1843-1922)というアメリカ人でした。(ネットで百科@homeより)
東京高等師範学校で欧米式の一斉教授法や、ペスタロッチ主義の直感教授法を日本に導入しました。戦前から日本の教育はアメリカ式なのです。
大東文化学院は立教大学の正面にかつてあり、戦時中の空襲で、立教大学はきれいに焼け残っているのに大東文化学院は敷地は小さいのに丸焼けで、あまりの見事さにびっくりしたと聞いたことがあります。
図書館には国の保護があったので多くの貴重な資料があり、空襲のとき貴重な絵巻物が、焼けながら夜に宙を舞っていたのを職員が懸命に消して守ろうとしたといいます、それでもかなり焼けてしまったと聞いております。図書館学講座ではないOBから聞いた話です。
立教大学は図書館旧館の立派な建物が残っておりますが、戦火を逃れた大事な建物ですので末永く大切にしてほしいと思います。資料はあまり入りませんが本当に大学の精神を象徴する建物だと思います。
戦後外地から引き揚げてきたOBの人が、私は経済なので価値がわかりませんが、漢文のきわめて貴重な資料を図書館司書さんに頼んだら、奥から出してきてくれて感無量だったと言っておられました。それが戦後の出発点だったという文を読んだことがあります。名前を言えば誰でも知ってる漢文の大家の先生ですが、「焼け残ったのか・・・」という気持ちであったと思います。「図書館司書とは大切な職業なのだなあ」と思いました。私は戦火の中で本を救おうという気持ちは持てないと思われ、先人の偉大さに本当に敬意の気持ちを持っております。
先日、京都の立命館大学が中国から四庫全書を贈られ、保管場所に困っているという記事を読みましたが、本当に貴重なものか確認して、ぜひ大切にしてほしいと思いました。幻の永楽大典の一部が日本で見つかればよいのですが・・・私の夢です。
師範学校は今は師範大学と言うべきなのでしょうか?その精神は本当に民主化させながら長く残ってほしいものだと思いました。
(追加)
大東文化学院の元となった戦前の学部は、昭和13年にできた「修身漢文科」、「国語漢文科」、「東亜政経科」の三科でした。先の二科は基本として「師範の育成」にありましたが、東亜政経科のみいささか異質で、目的が外地において不足している日本人官吏と経済人の育成することにありました。
戦後すぐの頃外地を失ったため、存続させるかどうか議論されたということですが、結局存続させることに決定し、現在の経済系学部の前身となりました。私が学生であった当時はまだ大東文化学院時代のOBが大勢まだまだ元気でした。官吏はやめても守秘義務があるので口が硬いのですが、さぞかし苦労されたであろうことは雰囲気で察せられました。
スポーツで鍛え上げられた連中も、あの穏やかな中に心の強さがある大人(たいじん)のような雰囲気の先生方を、ひじょうに苦手にしている雰囲気でした。大昔は文道をわきまえない集団が、山野で暴れまわるような事件もあったそうですが、大学当局がすぐさま解散を命じたと聞いています。私もあの実体験からくる凄味のようなものには雰囲気には「絶対勝てない臭い」がしました。戦前はドイツ経済学が中心だったそうです。戦後は英米系経済学が中心になりましたが、戦前の雰囲気にまだ少しでも触れられる時代に大学にいられて、私は幸福でした。
