「天空の城ラピュタ」で、シータが空から落ちてこなかったら、
あるいはちょっとだけ場所がズレていたら、
パズーの冒険は始まらなかった。
冒険の始まらないパズーはどうしただろう?
嘘つき呼ばわりされて死んだ父の子であるものの、パズーは地域の人びとに守られて暮らしている。
シータが現われなかったら、彼はそのまま地道に親方のあとを継ぎ、
よい若者としてみんなに慕われながら暮らしていく気がする。
あるいは、いつか冒険の旅に出るかもしれないが、案外また戻ってくる気もする。そしてやがては誰かと結婚し、鉱山の町で一生を過ごすんじゃないだろうか。
どちらにしろ、彼にはとりあえずベースとなる共同体が存在する。
パズーの知らない場所でシータは囚われ、ムスカが世界の王になったかもしれない。
その場合パズーは、世界を支配するラピュタを地上から見上げ、「ラピュタは本当にあったんだ」と一人つぶやくことになる。だが、その時はもう父の汚名返上などといっている場合ではない。
彼が対ラピュタのレジスタンスに加わるとしても、それはもう別の物語だ。
宮崎駿監督は「共同体」の価値と意味を尊ぶ人だ。
「未来少年コナン」の「ハイハーバー」、「風の谷のナウシカ」の「風の谷」などなど、ある意味理想ともいえる共同体がでてくる。
――描き方が「赤すぎる」(爆)と拒否感を持つ人もいるだろう。
いや、私も多分に赤いと思うし、これでもかといわんばかりの表現には気恥ずかしさを感じるのだが、これはまあ「太陽の王子ホルス」(監督は高畑勲氏)を見たりするとそれまでの流れを理解することができ、逆に落ち着くw(意味不明な方、ごめんなさい)
※さらに余談だけど、「もののけ姫」のタタラ場にいたっては、女性へすりよるスケベ心たっぷりのセリフが気恥ずかしすぎる。というわけで「女が元気な村は……」うんぬんや、タタラを踏むシーンは音声を消して見るようにしているw
さて、そのように素晴らしいものとして表現される共同体ではあるが、決して完ぺきなものとしては描かれているわけではない。
常に共同体とその構成員だけでは解決不能な問題が発生し、あるいはそこに馴染めない人びとの存在が浮上する。
主人公たちは、「よき共同体」によって育まれ大いに助けられながらも、いずれそこから旅立つ宿命を帯びている。また、そこに属さない者たちが関与することで、ひとまわり大きな「共同(協働)」の物語へと展開していく。
つまり、宮崎アニメは「共同体」の価値と意味を描きながらも、閉塞した状況の解決を個人や外部に頼るのだ。
いや、もしかしたら、それこそアイロニカルな宮崎監督だから、共同体を魅力的に描けば描くほど、その限界についても描きたくなるだろうし、もっといえば「自らが抱える嘘臭さ」を払拭したくなるのかもしれない。
たとえば、「もののけ姫」でのアシタカの村の冷たいことw
呪いを受けたアシタカを「亀の甲より年の功」ですらなく「亀の甲(占い)+年の功」で言いくるめ、使命を与えてさっさと追いだしてしまう(爆
もしかしたらそれが、共同体が選択可能な、個人への最大の寄与なのかもしれない。つまり、ある時期がきたり必要がある場合、追いだすことも、いや、それこそが共同体の役目なのかもしれないのだ。
※もちろんそれもこれも、稲作中心の農村では非常に難しい。
特に小規模な日本の農業においては村落共同体の協働が不可欠だった。季節の折々に人手が必要となる。そして現在、後継者がいない農家の人手不足が深刻なのは誰もが知るところだ。
ただ、離農が進むのは共同体の問題というよりも、政策の問題として考えた方がいいように思う。
さて、話が脱線したが、そのようにコナンもナウシカもアシタカも島や村を離れ、個人で「世界」とむきあう。
それこそが冒険であり、物語の始まりだ。
そして、ここでヒロインが重要な役を果たす。
「コナン」も「もののけ姫」もそうだが、特に「ラピュタ」は明快だろう。
パズーの夢は、いつかラピュタを発見し父の汚名を返上するというものだ。だが、その実現へ向けて具体的な行動はとれないまま、鉱山の町で暮らしている。
そこへシータが落ちてくる。
シータを追って、ドーラ一家や黒服たち、それに軍隊までやってくる。
ひっ迫した状況が、否応なく彼を冒険に旅立たせる。
パズーは、一大決心する間もなく、自分で計画する必要もなく、実にスムーズに旅立つのだ。
しかも、守るべき女、果たすべき夢、闘うべき敵、すべてが直線上に配置されラピュタへと繋がっている。
モチベーションも、それによる見返りもたっぷりある。
命を懸ける「価値」がこれでもかと用意されているのだ。
少年にとって、これほどおいしいシチュエーションがあるだろうか。
失われた父の名誉、地域社会としての鉱山町、軍隊を擁する国家、世界、世界の命運を左右するラピュタといった様々なフェイズにおいて危機があり、しかしその全ては「シータを守る」ということで解決する。
そしてまた、シータの存在が、「世界」にまったく別の大きな価値を持たせる。
「地球はまわる 君を隠して」
もしかしたらこれが、「前セカイ系」の構造なのかもしれない。
「セカイ系」という言葉の意味は、ググって貰うなり、
ウィキペディアその他で調べて頂くなりするとして、ここではもう少し幅のある意味で使用したい。
個人は多層的にさまざまなものに所属している。
望むと望まざるとに関わらず、意識するしないにかかわらず。
ただ、それをどのように認知するかは人それぞれだ。
地域共同体が昔ほど濃密な実体を持たなくなって久しい。
それは、多くの人が望んだ結果なのかもしれない。
プライバシーという概念が導入される以前から、一部監視や縛りを含んだ地域密着型のコミュニケーションから自由になりたいと願う人はそれなりにいた筈だ。
都市は単に経済や利便性のみならず、共同体に馴染めない人びとの意識を吸収して拡大していった。
また、多くの人が、実はひきこもりたかったんじゃないかという気もする。
「つきあいたくない人とはつきあいたくない」
都市はそれを可能とし、さらには家族をもそのように変質させていった。
その結果、地域共同体はかつての力を失い、「家族(家)」もまた単純に“内側”ではなくなった。
家の内外は今でもひとつの境界線ではあるが、そこにいる「家族」はかつてほど自分と同質の存在ではなく、多分に他者性を帯びた異質な存在としてそこにいる。
もともと欧米と比較して日本人の自我(イーゴ)は強固ではないだろう。だが、それでも日本人の「自己」は、ずいぶん明確なものになってきた気がする。
核家族化や、集合住宅のコンパートメント化、さらには個室の獲得という居住空間の変遷も含んで、人はより「個別の存在」になっていった。
だが、そのようにコミュニティへの帰属が希薄になると、当然のこと自他の境界は「個」の内か外かという一元的な線によって引かれることになる。そして、本来その時々で拡大・縮小するものだった(と思われる)「自己」=アイデンティティは唯一自分自身の身体が占めるスペースに固定化する。
このことが、逆に自我の強さとは関係なく「自己」を明確にしたともいえるだろう。
それまで家族や地域によってサポートされていたコミュニケーション・スキルやコミュニティを選択するスキルも、全てがそれぞれの個人に委ねられることになる。(もちろん何の通達もなしに)
欧米では(恐らく)文化・習慣として自我を醸成する下地がある筈だ。
日本ではその土壌のないまま、いきなりサポートが消失した状態で、個人が「世界」と接するのだ。
しかも、家族や地域といったコミュニティとの繋がりを失った(あるいは拒否した)場合、それらはすべて外部=他者として、「世界」の側に組み込まれる。
通信・交通などの発達で、物理的には世界は狭くなった。
しかし、心情的には必ずしもそうでないのかもしれない。
「世界」は(他者性が)段階的にシフトする多層的な構造ではなく、自分を包み込む無限の広がりをもったより巨大で単一の存在として感じられるかもしれない。
以上が、私の考える「セカイ系」だ。
そのような世界観を持つのは、もはや思春期特有の感覚によるものではない。むしろ世界と自分の間に存在する筈の国家や社会や地域や家族との連携が希薄になり、自分以外の全てが「世界」の側に呑み込まれた結果だろう。
当然のこと、家庭の居心地の悪さ、地域や社会への不満で悩むよりは、世界の命運について悩む方がカッコいい。少なくともフィクションでは、実生活と離れた、しかし同時にメタファーでもある問題に向きあうことに大きな意味と喜びがある。
だから、そういった物語が好まれ、生産されるのだろう。
しかもたった一人で活躍したり、あるいはモチベーションとなってくれる少女がいれば、より重要な価値を帯びる。
その時ヒロインは(アタリマエのことではあるけれど)少年にとって自らを投影する鏡だから、厳密には他者ではない。
まさに自らの代理として、あるいは使命そのものとして、世界の命運を握る存在だ。
「キミとボクの物語」は、そのまま「ボクの物語」である。
どうしても、ボク一人ではたちゆかない閉塞を、キミの存在が変えてくれるのだ。
携帯小説がブームらしい。
たとえ経済が多少上向きになっても、トリクルダウンが起きないまま階層化が進み、信じられるのは今この瞬間のキミとボクの気持ちだけ。
そのようなラブストーリーが、大量に消費されているとも聞く。
しかし、「切なさ」が価値として浮上する背景には、現実の世界では「切なさ」を味わう余裕やチャンスすらない、ということかもしれない。
個人として、日々「世界」と肌を接し、しかもコミュニティから断絶した状態で、自ら求めるもっとも嘘のない(そして味わうに足る)感情が、もしかしたら「切なさ」なのではないだろうか。
遠い日々、本当だったらそうであったかもしれない架空の世界、そこで味わいたかった感情――。
だが――。
現実に空から降ってくる少女はいないし、ワクワクする出来事も起きない。
出会うべきキミはそこにいず、起こるべき事態は起こらず、
巨大な「世界」の中で、ただ名もない個人として、ざらついた日常を送る。
何も始まらないまま終わっている卑小な自分を、世界に同化することもできずに持て余した時、もしかしたら人によっては、「世界」へ対し勝ち目のない闘いを挑むのか知れない。
そこに守るべき彼女もいなければ、「ただ見守るだけのボク」という役割すら用意されていない。
地平線は輝きはしない。
君を隠したりしていないから。
たくさんの灯も懐かしくはない。
あのどれかひとつに君はいないから。
世界は何か素敵な意味を何一つ示そうとしない。
しかし、倒すべき敵も、怒りの矛先を向ける明確な相手も存在しない。
シータの現われないパズーが居心地よく暮らせるような鉱山町も、
呪いを受けたアシタカを追いだすような村も存在しない。
何もすることがない。
旅立つ先も、果たすべき使命も。
にもかかわらず、世界は確実に存在するのだ。
それどころか、満遍なく続く不定形の塊として、ぐにゃぐにゃとした掴み所のない、しかし強大な力で体にまとわりつく。
やがてその力は、体の中にまで入り込み、巨大な圧力となって内側で膨らむ。
無益な闘争になにがしかの爽快感があるとしたらそれは、
負けは確定した上でなお、屈せずに一矢報いることに他ならない。
一人対世界の闘いで、ただ黙したままだろうという大方の予想(と想像される)を裏切り、
できるだけ過激な方法で自らの存在をしらしめることが、
世界と同質でないという証明になる。
なぜ彼だったのだろう?
恐らく、誰でもよかったのだ。
個人の尊厳や人権について考えれば、
彼は暴力について学ぶべきだ。
行動は感情と直結しているものではなく、そこには必ず判断がある。
だが、現象としての彼は、いや彼をとりまく世界は、彼を選び、彼を取り込んだ。
(認知の)情報で構築された「セカイ」からつまみだし、猥雑だが明確なルールの適用される世界(社会)へ放り込んだともいえる。
犯罪として、あるいは犯罪者としての善悪とは別に、
出来事としての事件を考えた時、私にはまるで
「世界」が彼を再同化したように思える。
恐らくそこまで考えていたわけではないだろう。
だがもしかたら、彼が本当に望んだのもまた、世界への帰属だったのかもしれない。
その異化と同化のプロセスこそ、彼が、そして世界が望んだ物語だったような気がしてならないのだ。

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