ミステリーの法則
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名探偵ポワロがやってくると、殺人事件が起こる。
⇒ポワロの存在が、犯人の殺意を高める。
ミス・マープルの知り合いは、殺人事件に巻き込まれる。
⇒ミス・マープルの知り合いは、彼女に話すべき難事件が起こるのを待っている。
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怪獣映画の法則
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怪獣映画では、その時代・地域でもっとも象徴的な建物が、壊される。
⇒みんな、それが壊れるところを見たいから。
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これは一面的な見解ではあるけれど、戦後まもなくの怪獣映画は、日本人のルサンチマンやトラウマの(疑似的な)追体験に役立ってきたかもしれない。
そもそも、第五福竜丸の事件後に作られたゴジラは、原水爆とは切っても切れない存在だし、モスラ、ガメラ、その他の怪獣たちによって、あるいは怪獣の出てこない特撮映画でも、日本が沈没したり宇宙人に攻められたりして、象徴的な建物が何度も繰り返し破壊されている。
東京タワーや国会議事堂は確かにあの当時の日本のシンボル的な存在だったようにも思える。
だが、戦後ずいぶんたってからも、ゴジラやガメラは破壊を続けた。都庁も福岡ドームも完膚なきまでに破壊されている。
そこには、もしかしたら目覚ましい復興を遂げた都市の脆弱さに対する不安や、さらには隠された破壊衝動があるのかもしれない。
もちろんのこと、リアルでそうした破壊を望む人はごくごくわずかで、フィクションだから楽しめる。
第二次大戦後、現実に日本でこうした破壊が起きたのは、地震などの天変地異のみで、そこに「人の意思」は関わっていなかった。
アメリカのフィクションでも、都市の破壊は何度となく描かれている。
だがそのほとんどは、宇宙人による攻撃や天変地異によるもので、何らかの意思(?)を持つ巨大な存在が、象徴的な建物を破壊するわけではない。キングコングは、エンパイア・ステート・ビルをよじ登っただけで破壊はしないし、アメリカ版ゴジラもスクエアガーデンを占拠したくらいで、実在する建物が壊されるシーンが印象的に描かれていた記憶はない。(確認したわけではないので、違っていたらゴメンナサイ)
どうやら、怪獣という存在は、日本人の歴史や文化、あるいは深層心理と不可分なメタファーなのだろう。
ある日、少なくとも多くの人には何の予兆もなく、世界貿易センタービルが崩落した。
まるでCGでも見ているかのような映像が、世界を駆け巡った。
私には、ジャン・ボードリヤールが
「パワー・インフェルノ」(2003年/NTT出版)で書いている「結局、それを実行したのは彼らだが、望んだのは私たちのほうなのだ」という言葉が頭から離れない。
ボードリヤールは同時に「グローバリズムに抵抗しているのは、じつは世界そのものだ」と書いている。
それにならっていえば、
あの秋葉原の通り魔も、システムの機能として「ある役割」を与えられたように思えてならない。
彼のしたことを擁護する気はさらさらないし、マスコミなどで一部報道されているように「非正規雇用の問題点」をここで語るつもりはない。
「システムの不備がしわ寄せとなり、犯罪が起きやすい状況を作りだす」という意見にはかなり賛同するし、これを契機に見直しがなされればいいと思う。だが、そういった直近の課題とは別に、「社会」がそれ自体内包してしまうシステム障害について、より気になるのだ。
――いや、それは本当にシステム障害なんだろうか?
ここ数年で、犯罪被害者への対応は「犯罪被害者保護法」や「刑事訴訟法及び検察審査会法」の改正などにより、少なくとも法的には随分マシになった筈だ。
大きな問題のひとつだった、マスコミによる被害者への強引な取材も、一時期に比べれば改善されているようにも思える。
だが、今回の通り魔事件は、その報道の在りよう(と、その方向)が、ひとまわり大きな、(私的にはもっと気持ち悪い)状況を作りだしていると感じる。
前代未聞の大事件だから、ということはあるだろう。
だが今回は、亡くなった人たちのプロフィールをこと細かに報道するだけではない。
いかに皆に慕われ、いかに夢をもっていたか、
どれくらい貴重な命だったかを、これでもかと報道しているように感じる。
それが正しい在り方なのか、それとも行き過ぎなのかは、人それぞれ違う感想を抱くかもしれない。
ただ、私には、
これまで「被害者への対応」が酷かったことを指摘され自粛を求められたマスコミが、
「これなら文句ないだろう」「これでご満足?」とばかりに
「被害者をよいものとして描くこと」を強力に推し進めている気がするのだ。
「奪われた命の重さ」は計りようもない。
あるいはそれを顕そうという「よい思惑」も働いているのかもしれない。
だがこれではまるで、情報としての「命」の価値は、その情報量によって数値化されるといわんばかりだ……。
そして私はこれこそが、テロの本質であるように感じてならない。
多くの人が感じているように、秋葉原通り魔殺人犯は『一定時間に無作為抽出でどれだけたくさん殺せるかゲーム』をしたように見える。
――量と速度、つまり情報の多さが彼が獲得しようとしたポイントだ。
(そこが酒鬼薔薇や宅間守とは違う曖昧な殺意と繋がっているように思う)
ヤツはまた、携帯BBSで
「命は尊いというけれど、(自分は)クズ以下の命だから」という意味の書き込みをしていたという。
犯人はまさに、「尊い(筈の)命の価値」を暴力によって計測しようとした、とはいえないだろうか?
そして、「被害者のかけがえのなさ」が報道されればされるほど
絶対値としては犯人の行為もまた、被害者の命(の数と質)と等価であることになってしまう。
暴力はほとんどの場合、防衛や復讐の手段だ。
それが他者から見て正当なものであるかどうかはさておき、
ヤツが自らを「被害者」だと感じていたことは間違いない。
だが、この世界に「自らを被害者だと感じている」者など腐るほどいる。
その多くは、(たとえ殺意を抱くことがあっても)実際に行為には及ばない。
では、なぜ、ヤツは殺したのか?
休日の秋葉原が選ばれた理由は簡単だ。
――彼に馴染みのある街だったから。
そして、そこに人がたくさんいたから。
だが、ヤツ自身のシンプルな選択理由を超えて、
秋葉原が選ばれたことは、非常に象徴的だと思う。
掲示板で犯行に至る過程を実況した彼の行動は、
事件発生直後から多くの通行人によって携帯のムービーや写真に収められた。
逮捕後には、その瞬間の写真を、携帯の赤外線通信でコピーするために人だかりができたそうだ。
マスコミも、一般の人から何度めかのコピーをして報道に利用している。
事件が起きたのが渋谷でも新宿でも、あるいは池袋でも銀座でも、
同じように携帯での撮影は行われたかもしれない。
だが、携帯での撮影会と猥雑な情報発信がもっとも似合う街、それは秋葉原だ。
「誰でもよかった」
殺意について、彼はそう説明している。
そこに、具体的なルサンチマンや明確な方向性は希薄だ。
だが、「誰でもよかった」のは、
彼がかろうじて意識可能な「殺意の説明」を超えて
加害者である彼自身のことでもありはしないだろうか?
匿名性はその個人を守るのと同時に、集積された情報の一部として消費されることを余儀なくされる。
「通りすがり@名無しさん」としてのみ発信する「日々情報として消費される個人」の中から、システムは無作為に何人かを抽出し、非日常のドラマを描いたのではないだろうか?
もっといえば、祝祭的な空間である秋葉原で、
原初の命の発動である「暴力」を具現化した「鬼」を
私たちは必要としたし、あるいは見たかったのかもしれない。
「世の中が嫌になった」という説明はあまりにも具体性に欠けている。
ホントは「世の中」ではない。
後に、職場での不満やこれまでの生活歴なども報道されたが
そのひとつひとつは、それだけなら「無差別殺人」に至る防衛や復讐を生むものではない筈だ。
集積というのは恐ろしい。
だが、それが情報ならば、集積が容易いのだ。
誰でもいいからとにかく大勢殺し、
その勢いと量で「消費される側」から「消費する側」へまわりたい(と、当人が意識しているかどうかはさておき)と思うほどの
殺意にまで拡大させたのは彼自身の選択だ。
もし彼が、ひとつひとつの「嫌なこと」を集積させず、
それなりのやり方で、何らかの対処もしくは賢い選択をしていれば
殺さなくても済んだ筈だ。
あるいは、明確な「誰か」に対する殺意になった可能性は否定できない。
しかし、殺す以外の「復讐」、さらに賢明であれば、それなりに幸福なブレイクスルーが見つかったかもしれない。
だが、そういうこと考えたり実行したりするのは、実は凄く面倒くさい。
「賢明なやり方」というのは大抵の場合、地道で地味な継続が必要だ。
あるいは、自らを守る匿名性を捨てなければならなかったり、課題や他者と直面する必要がでてくる。
一朝一夕に解決できることなどほとんどなく、100%満足のいく答えというのもそうそう手に入らない。
暴力で何かを得ることができるわけじゃない。
しかし、他の方法でも欲しいものが得られそうにない時、
他に打つ手がみつからない時、
そして(それが他者から見て正当かどうかはともかく)体一杯に「被害」を溜め込んでいた時、
暴力は、ダイレクトで100%だ。
少なくとも、自分が100%ダイレクトに行動できる、唯一の方法は「暴力」である。
たとえ疎外、抑圧、忌避されるとしても、他人や世の中に、なんらかの「効果」(影響)を与えた実感を感じ取る――暴力ならそれが可能だ。
暴力は常に選択肢のひとつとして
そして「防衛」や「自己確認」の手段としてある。
(大した意思決定なく暴力化する行動パターンの形成=『習慣化』は、十分考えられるとしても)
だから、その個人の在りようは、ほかならぬ本人の選択の結果だ。
彼の行動の責任は彼にある。
だがもし、「消費される個人」を必要とするシステムなのだとしたら?
「集積として消費される情報のひとつ」にすぎない個人として無作為に抽出された誰かが、
同じように「集積として消費される情報」であった個人の命を奪い、
そのことで「システムの健全性」を保つ(もしくはメンテナンスする)のだとしたら?
秋葉原という地名とセットで本名やプロフィールが公開された被害者と加害者は、
共に個別の特殊な存在となった。
そこで現実に撮影された映像や画像は世界をかけめぐり、消費された。
匿名の掲示板に書き込まれた匿名の犯行予告は、
「それがフィクションではなく、現実であること」を
犯行によって裏付けられ、名前を与えられた。
歩行者天国にトラックで突っ込んだ後、
彼はそのまま車でひき殺し続けはしなかった。
トラックを降り、可能な限りのスピードと勢いで「命」の実体である肉体を動かし、
ノルアドレナリンの命じるままに、動けるだけ動く。
大きな使命感とともに、ヤツは殺し続けた筈だ。
それは個人的な選択の積み重ねの結果だ。
だがその行為の結果は、個人の思惑を超えて、
「陰惨な物語」として社会に共有され、そして消費されていく。
事件が特異であればあるほど、「そのシステムが平衡を保つための生け贄の在り方」を浮かび上がらせるように感じる。
たまたまあの日、秋葉原へでかけていれば、私が犠牲になったかもしれない。
同じように、たまたま選ばれたら、私が殺人を犯したかもしれない。
それは、神とか運命とかいった超自然の力の話ではなく、ハードディスクが消耗品であるのと何ら変わりのない自然の摂理のような気がしてならないのだ。
写真や動画を撮影可能な携帯は、
それで何か特別な映像を撮影する時が来るのを、無意識のうちに期待している。
たとえ、その所有者が一度もそんなことを考えていなかったとしても、
僅かばかりの可能性があるというだけで、あるいは匿名の情報の集積に参加している時点で。
個人であっても多数の虐げられた人びとであっても、怒りが「テロ」という形に変化した時点で、
それはもう個人やそれぞれの人びとの思惑を超えてしまう。
「暴力」は、個人や人びとを内包するシステム全体への攻撃となる。
システムのシステムへの攻撃は、それ自体の機能を最大限に利用する。
大怪獣は出現せず、そのかわり、飛行機がタワーへ突っ込む。
そして、世界がそれを知る。
ミス・マープルやポワロが取り組むような難事件は起きず、
そのかわり、ミステリにはなりえない無差別事件が起こる。
そして、世界がそれを知る。
私たちにもしできることがあるとしたら、少しマシなシステムを構築したり、メンテナンスを怠らない地道で地味な継続だけかもしれない。
だが、私はそれがつくづく苦手だ。
何かきらびやかな、一発逆転の幸福を夢見てしまう。
揚げ句の果てには、その「絵に描いた餅」が手に入らないからといって、投げやりになったり、ウツ状態に陥ったりする。
亡くなられた被害者の方たちの夢や希望、進路、存在した筈の幸福な未来についてニュースで流される度に、ヤツはそこに絶望していたのだと感じる。
それこそが「価値≒命のかけがえの無さ」なのだとしたら、ヤツは何一つ持っていなかったことになる。
「奪われた不幸」について他者が語れば語るほど、同じ価値観の大きな言説に絡めとられていく気がするのだ。
たとえ希望がなくても、不幸のどん底にあっても、何の未来も保証されていなくても、毎日嫌なことだらけでも、腹がたちまくっていても、暴力をふるっていいわけではない。
そして、いい人でなくても、能力が劣っていても、どうしようもなくダメな一日・一年・人生であっても、自分が特別な存在でなくても、希望がなくても、どれだけ人を呪っていようとも、毎日死ぬしかないと思っていても、誰か殺したいと思っていても、命の価値は何ら変わることがない。
私は「鬼」に選ばれたくはないし、「鬼」に殺されたくもない。誰かを「鬼」として選ぶのも嫌だ。
可能なかぎりリアルな、しかし現実ではないロールプレイできちんと祝い祭ることは不可能だろうか?
今後、秋葉原の歩行者天国は、鬼の残滓をどう祭るのだろう?

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