どう足掻いても、フィクションはフィクション、現実ではありえない。
もちろん、フィクションを生みだしたり、フィクションを消費したりする活動それ自体は、人が生活する中で実際に行っている現実そのものだ。
反対に、人が何かを認識したり考えたりする時、すでにそこには(意図的ではない)虚構の要素が含まれてしまう気がする。
つまり、フィクションと現実を、はっきりと切り分けることなどできはしないと思うのだ。
まして、人はさまざまなイメージを持っている。
そのイメージに従って判断を下し、外部の世界へアプローチする。
たとえば、喫茶店で出されたコップに注がれた水は、冷たいことが期待されている。
もちろん生ぬるいこともあるけれど。
携帯電話のボタンを押せば、その番号の相手につながることが期待されている。
もちろん、留守番電話サービスに繋がることもあるけれど。
私にひきつけていえば、「秘密の箱」第二部第XIII章はやがて出来上がり、オンライン上で公開される。
今はまだそうなっていないけれど。
未来は常に不確定なものだが、その不確定さを補うのが、ほかならぬフィクションであると思う。
時間や自然はもちろん人間の作りだした社会ですら、人の脳が把握できるロジックだけでできているわけではない。厳然と存在する外部(≒環境)にアプローチしたり認識したりするためには、常になんらかのフィクションを必要としている気がするのだ。
そういった個々人の内部に無意識に存在するフィクションは、そう簡単には変更できないし、まさにそれが現実を形作っているともいえる。
でも、たとえば小説のように意図的に生みだされるフィクションは、それが虚構であることがはっきりとしているが故に、逆に何らかのリアリティを要求される。
今、私の後ろでは、アルタイルから来た宇宙人がお茶を啜っている。
「ブログ? そんなもん書いて何が面白いんだよ」とか、悪態をつきながら。
こう書けば、恐らく殆どの人が、フィクションだと思うだろう。
実は、先週行った居酒屋で、金色の阿呆らしい服を着て、頭のてっぺんの髪だけ銀色に染めた変なおっちゃんが、妙に甲高い声で喋っているなと思ったら、そいつが突然話しかけてきたのだが。
そして、そいつは、「自分はアルタイルから来た」などと、ふざけたことを抜かしたわけだが。
髪を染め、ジェルでガチガチに固めて立たせているのだと思った銀色の突起は、実は頭から直接生えているらしかった。それに、安っぽい合皮のように見えた金色の服は、どこにも縫い目がなかった。しかも手や足もすっぽり覆っていて、当人によればそれが皮膚であるということだった。
なぜそんなヤツが今私の部屋にいるのかというと、酔ったイキオイで泊めてしまったからだ。
その夜、そろそろ帰ろうとしたら、「オマエのウチに泊めろ」といわれた。
もちろん最初は断った。「自分ちに帰れ」といった。
ヤツは「オレんちは、とっても遠い。今からではもう間に合わない」と、その時だけは淋しそうに答えた。
ここへどうやってきたのか聞くと、宇宙船だと答える。帰りの宇宙船が地球の近くまでやってくるのは2日後だと、もっともらしい理由まで並べた。
仕方なく、一晩だけの約束でヤツを泊めた。
今では、非常に後悔している。
私は自分でも馬鹿だと思うほどのお人よしだった。
そろそろ一週間、迷惑な客は、未だに帰ろうとしない。
ヤツの話では、宇宙船は3日に一度、地球の近くを通るらしい。
ならば、明日はまた、また宇宙船がやってくる日だ。
しかし、こちらからその話を持ちだすと、ヤツは巧みに話をすり替える。
どう足掻いてもフィクションはフィクション、現実ではありえない。
しかし、意図的に作りだす虚構では、なにがしかのリアリティで補強しないわけにはいかない。
後ろでヤツがずずずっとお茶を啜る音が聞こえる。
「地球の喰いもんは大抵マズいが、これは随分とマシだな」
どうやらヤツは、抹茶入りの玄米茶が痛く気に入っているらしい。

0