木曽川町時代に発足した「地域福祉ネットワーク会議」
高齢者福祉に携わる施設、団体、ボランティアグループあるいは個人などが、町に自立的で緩やかな「安心のネットワーク」を築こうという意思のもとに結集。
提唱者は教員を中途退職して福祉の道に転進していった先駆的女性。木曽川町の保健師がそれを支えて、官と民の緩やかな連合のもとに自発的に活動が進められていきました。
すでに「緩やかな」という言葉を2度使いましたが、「国で決まったから」「県がやれと言ったから」「制度だから」「市町がやらなきゃいかんから」という行政スタイルとは全く違う、新しい地域の在り方を模索する画期的な試みでした。
「補助金が来とるから」「予算があるから」というのではなく、自分たちの会費で賄える活動を自分たちで創造していく。
保健師が優秀でした。保育園や学校の先生みたいに“陰で”会員の自助を支えていく。きっと「前例がない」「非効率である」という行政職員の声を抑えながらだったんだと思います。
町長は何をやっていたか? ニコニコしながら見守っていました。
「介護保険制度」を小さな町がどうやって引き受けていくんだということに頭を悩ませていた頃だったから。
「高齢者」「高齢者予備軍」といわれる年齢層が、自分の「終の棲家」がどんな状況にあって、どんな仲間がいて、何を知り何をしたら安心してそこで暮らせるのか・・・これを日頃からよく認識してもらうことが、介護保険を真に被保険者に安心をもたらすものにしていく原動力じゃないかと思っていたからです。
だから、ネットワークの会長さんや保健師に“そそのかされて”、福祉先進市といわれていた愛知県高浜市の市長さんにお会いして、福祉施策や病院の問題についてお話しさせてもらったりもしました。
その市長さんが、「木曽川町では高齢者福祉と保健を合体させて『保健長寿課』を立ち上げました」と報告したら、「それがうちではまだできずにいるんです!」と悔しがられた。
合併後は「やっぱり」という感じで、行政が、つまり保健師が手を引くことになりました。
制度の裏付けもなくなんとなくぼんやりしている活動体、自立といってもまだまだせっせと育てていかなければならない。そういう非効率的なものを1地域だけで“培養”していくことは大きな行政体では無理だろうと、みんなが予測していたから「やっぱり」なのです。
保健師さんたちは残念がりましたねえ。会長さんは、合併を推進した私を「裏切り者!」とい目で見られまいたねえ。
そして何を考えられたかというと、ご自身は自分が理想とする福祉施設をつくり営んでいく、ネットワークは“裏切り者”を会長に据えて責任をとらせながら存続させていく、ということだったのです。
私は、とりあえず存続させるという段階だけ“責任”をとらせてもらって、次にまことにこのネットワークにふさわしい会長さんを選んで退きました。
で、今は「顧問」という立場で総会などに出席させてもらっています。
なつかしくて長々と書いてしまいましたが、何を言いたかったのかというと、
この総会で私『絆』という歌をうたってしまったのです。
こんな顧問、いますか? われながらあきれます。
ま、それだけのお話・・・ながながと結論のない話を、どうもすみません。

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