今年は書き込みが遅くなったが簡単には書いておきたい。
★舟田詠子 『パンの文化史』
パンに関する素材、技術、製法、文化など幅広い話題が縦横に展開される。特に興味深かったのは、パンには平焼きのパン(ヨーロッパ以外の地域で一般的)と厚焼きのパン(アルプス以北で一般的)についての議論。平焼きはおかずとの豊富な組合せがあり、食事の一品やお菓子にもなる。こちらは厚焼きをする必要性がない。厚焼きパンの地域では中世にはおかずがないためパン自体を美味しく焼く方向に展開したという。このあたりにも近代以前の世界の状況として、
豊かなアジアと貧しいヨーロッパの対比が垣間見え、興味深かった。
イギリスパン(食パン)やフランスパンはどちらも1900年前後のものであり、長いパンの歴史の中では新しいものであるというのも面白い。もっとパンについて知りたくなった。
★キャロル・S・ドゥエック 『マインドセット 「やればできる!」の研究』
人の能力は変化する(成長する)と信じている「しなやかマインドセットgrowth mindset」と能力は固定したものだと信じる「硬直マインドセットfixed mindset」を対比しながら、それがどのような形で現われるのか、また、どのような帰結をもたらしやすいのかといったことがわかりやすく説明されている。
本書を読んだことにより、
いろいろな人がfixed mindsetを前提として動いていることがよく見えた。特に興味深かったのは、
硬直マインドセットであると、他人の評価を気にするという点であった。能力は固定されていると考えると、自分の能力が優れていると他人から認められなければ自分には価値がないと感じてしまう。
成長していこうとする志向よりも他人の眼を気にする対応をする人の心理がよく分かった。彼らの言動は、いずれも自分や周囲の成長を促すのではなく、本人の能力があると示したいだけの全く建設的ではないものだが、これらの前提に硬直マインドセットがあると考えると非常にクリアになった。
また、人間関係においても関係を向上させるために努力が必要だと知っているしなやかマインドセットと努力が必要であることを知らない硬直マインドセットという対比も参考になった。
硬直マインドセットは変えていけるがそれほど容易でもない。このため、しなやかマインドセットの人は成長するし、硬直マインドセットの人は成長を続けることが容易ではない。この点は私の人間観と一致していると思われた。
★荒松雄 『インド・イスラム遺跡研究 中世デリーの「壁モスク」群』
「壁モスク」と著者が名づけた独特の建築に注目することで中世インドにおける(主にムスリムの)礼拝のあり方の一端を明らかにしようとしている。
●デリーにおける「壁モスク」は、デリー・サルタナットからムガル朝初期(デリーの支配はアフガン系のスール朝の時代!(P271))の頃に建てられた墓であり、その墓域の西側にミフラーブを持つキブラ壁(多くはその上部にバトゥルメントなどによる装飾が施されている)を持つものである。
キブラ壁の他に袖壁や囲壁を持つものがあり、キブラ壁の南北の端など要所にミナレット風またはバスティオン(城塞の城壁の一部の突出した部分で普通は半円形をしている)風の小塔、東側に門(ダルワーザ)などを持つものもあり、その多くは基壇に乗っている。
●インドにおけるイスラームの浸透には、スーフィー聖者の果たした役割が大きかったと著者は考えており、ムスリムの増加は移住よりも改宗によるものが多かったとする。スーフィー聖者に対してはダルガーで祈りなどが行なわれることがあり、本来のイスラームの教義では墓での礼拝などは禁止されているが、スーフィズムでは聖者の墓への墓参の習慣なども盛んだったため、そうした現地で根づいた習慣と壁モスクの明らかに礼拝のための空間が設けられている事実とから、壁モスクのような墓での礼拝を行なうこともあったと著者は考えている。この点には納得した。
スーフィズムによる改宗という社会的事実が、こうしたある種の「異端的」な建造物の背景となっている。(ただし、壁モスクでも礼拝が行われたものとそうでないものがある。)
●著者はインドにおけるイスラームの浸透について、初期はクトゥブ・モスクのような巨大モスクから始まり、サルタナット中期には中規模モスクが多く建てられるようになり、サルタナット末期には中小モスクも造営されたとする。これはムスリムの増加を反映しており、ローディ―朝の頃に墓建築が著しく増加したことと照応しているとする(P57)。壁モスクもこれに連動しており、墓建築と同様、当時の権力者やその一族の権威誇示という目的もあったものと考えられる(壁モスクに見られる装飾も威厳や格式を誇示するためのものでもあるとする)。この時期(サイイド朝やローディ―朝)には、中央の権力は非常に弱く、地方的な権力が多数存在していたことが、壁モスクや墓建築が増加したことの要因である。
●19世紀末から20世紀初頭のASIの調査や何人かのイギリス人や当時のムスリム文人の認識を根拠として、この「壁モスク」が礼拝の場であり墓でもあると言えると主張している点は、説得力としては弱い。19世紀にそう認識されていることと、建造時にそう思われていたこととは必ずしも一致しないからである。ただ、建物の形態から見て墓で礼拝したであろうと推察されるというのは理解する。
●本書では、サルタナット初期の
スルターン・ガーリーの墓に既に壁モスクに展開する要素がすでにあり、サルタナット末期に
壁モスクが多数建造され、
バラー・グンバド・マスジッド・コンプレックス(ローディ―公園にある)のような規模の大きな複合体にまで発展し、その構成はタージ・マハルのような
ムガル初期の大規模墓建築へと発展していったという発展経路を索出している(P320)。言われてみれば、そのように見ることは可能と思える。基壇の上に墓がありモスクがあり囲壁や門がある、といった基本的な構成要素はいずれにも共通する。(壁モスクの簡単なものにはすべては揃っていないが。)
個人的にはバラー・グンバド・マスジッド・コンプレックスには2010年に訪れているのだが、その建物に囲まれたところに墓があるとは気づかなかったが、写真を見ると基壇はあったようであり、再訪してみたいという気になった。
●本書からなるほどと思わされた主な認識は次の通り。まず、
基壇を持つ墓やモスクというのはサルタナットからムガル朝のインドのイスラーム建築の特徴的な要素だということ。かつて訪問したデリーのジャーマ・マスジドも階段を上って囲壁の中に入り、その中に本書とは別の意味で「壁モスク」と呼びたくなるような左右に広がりを持つ建物が展開していることが想起された。フマユーン廟やタージ・マハルにも基壇があることは言うまでもない。
もう一つは、
インドにおける遺跡の保存の在り方としての「遺跡公園」化という指摘にも納得させられた。ローディー公園はまさにそうしたものであり、タージ・マハルもある意味ではそうした要素を持っていた。さらにバナラシの近くの仏教の遺跡も公園化されていた。実際に行った経験があるので、言われていることが実感として分かる。
経験は重要。本でも重ねて学ぶのも重要。
★大野哲也 『旅を生きる人びと バックパッカーの人類学』
人々の「旅を生きる」という実践について考察する(p25)。
バックパッキングは、「自分探し」を伴っているものとして想定されており、アイデンティティと旅との関係性について考察している。バックパッカーを移動型、沈潜型、移住型、生活型の4類型に分類した上で、タイプ別の特徴、共通点や相違点、こうした旅の仕方がもつ個人と社会にとっての意義などを描き出していく。
70年代頃のヒッピー文化に連なるものとしてバックパッカーが登場したが、次第に旅がマニュアル化、制度化、商品化されてきていることが随所で指摘されている。旅がアイデンティティにもたらす変化のメカニズムについての叙述(主に第1章)は実感としてもよく分かる内容であり、所々に自分でもあまり気づいていない点について気づかされるところもあり、興味深かった。バックパッキングには異文化経験や異なる価値観との連続的な接触を伴う。こうした
経験(失敗や成功)を、その都度、事後的に再構成しながらバックパッカーたちは自己成長物語を重層的に生成していく(p46)。このことにより、バックパッカーたちには成長や変革の感覚が生じる。このような感覚を持つことは事実であり、移動型パッカーたちの個人の生を活性化させている(p54)。しかし、ここでは
「個性豊かでタフ」であることが是とされており、この発想自体が日本社会の内部に広く深く浸透している「前進主義的価値観」と親和的であると指摘している(p52)。
移動型パッカーは、旅を終えて日本社会に再参入する際、旅での経験を就職活動で活用するなど、
旅での経験を資源化し、日本社会の「前進主義的価値観」に回帰して行くことを指摘する。本書の視点(前進主義的価値観を拒否しているほど良いと考えられている)から見ると、移動型の旅はこの価値観を是認していることから低く評価されている。
沈潜型の旅では、現地文化に浸ることより他の日本人旅行者との交流を志向しており(自文化に浸りながら異文化を経験したい)、日本人宿として好まれる宿もスタッフの日本語能力と人柄が基準となっている。バックパッカーズタウンの形成は、バックパッカーたちのその地域への流入に対して現地の小資本がビジネスチャンスを見出し、バックパッカーたちの習性(例えば、日本人パッカーは日本語力や人柄を重視)を利用してビジネスを展開している。
沈潜型パッカーは日本人宿に日本人コミュニティを形成するきっかけを与えたりする形で日本人バックパッカーの再生産に加担している。沈潜型は移動型とは異なり気に入った町を「わかる」ことに関心がある(p81)。このことは、移動型より「深く長く」自己の生を見つめる契機となると評価できる(p86)。しかし、前進主義的価値観からは逃れられずにいる点では両者は共通しているという(p84)。
第3章のバックパッキングの商品化(画一化、マニュアル化)についての議論は非常に興味深かった。バックパッカーの投稿で作られる『地球の歩き方』(ロンプラとは異なる編集方針)。ガイドブックが提示する推奨ルートなどにより旅のマニュアル化と旅の経験の画一化が進んでいること(マスツーリズムのバリエーションの一つとなってしまっているとする(p100))。
冒険的なイメージは維持しながらも、実際には「安全に冒険」できるような商品化が進んでいること。商品化や画一化されていても、一応は自分の選択と偶然などによって経験できることに違いがあるため、「安全な冒険」であっても、自分にとっては真正性のある冒険として経験されること。
第4章では、バックパッカーのコミュニティにはヒエラルキーがあり、リスキーな経験をしていることにより旅人してのステイタスが上昇していくことが指摘され、商品化されたリスクに対して抱かれる不満から、真正なリスクを求めてしまう(戦場への旅などをしたがる)という旅人の心性が指摘される。しかし、戦場へのルートですら商品化されてしまっており、結局は「安全にリスクを消費したい」という願望を持っていることが指摘される。
第5章で考察される移住型は、日本と現地との両方に生活の基盤をつくり、どちらか一方には回帰しないことによって自分の生きやすさを確保する。これは前進主義的価値観に自発的に再服従して行く(と本書では考えている)移動型や沈潜型とは異なるとする(p177)。この点に関しては私としては批判がある。日本社会で生活し、その中に自分が働く場を見つける場合は「前進主義的」とされるが、日本社会に完全に回帰しない場合には、それに抵抗していると本書ではされているが、それは本当だろうか?私からすると、
日本に回帰しようがしまいがいずれも世界の中での自分の居場所を探し、選択可能な範囲内で最も適応しやすい環境に回帰しているだけであると思われる。もちろん、日本で生活するより海外でも生活する方がバイタリティが必要であり、その意味で、そうしたことをしている人の方が平均として面白い人が多いだろうということはわかる。しかし、
海外でも生活するためには、より多くの「恵まれた」環境が必要である点には留意が必要だろう。
第6章では生活型が紹介されるが、彼らはどの社会にも属さないことで自分らしさを確保しているとされる。日本社会に帰らないということから本書では「前進主義的価値観」に抵抗しているとされ高く評価されている。しかし、私としては、このような評価に対しては疑問がある。
生活型も、全くどこの社会にも属していないわけではない。複数の社会の制度などを取捨選択するのは、本書の枠組みで言えば「前進主義的価値観」を持っている人々によって用意され、運営されている制度(年金や健康保険)に対して、自分は貢献することもなくタダ乗り(寄生)しているのであって、「日本社会」なしには成り立たないことをしている。また、旅を生きている生活型は、果たして社会に対する貢献の度合いが移動型などが日本に戻った後より強いだろうか?
「自分は他人(社会)に貢献せず、その成果だけは搾取する」というのが生活型の基本的なライフスタイルであって、紹介された事例も、日本社会の制度の中で生きることができず、そこから逃げているように思われる。
本書は
「自分らしさ」と「社会的評価」とは相反するものと見なしているが、この見方がそもそも不当である。当のパッカーたちが「矛盾も破綻も感じることなく(p263)」まとめあげていくのは当然のことと思われる。「世間体に捉われない」ということと「自分らしく」とは同じではない。(本書は「自分らしく」=「世間体に捉われない」⇔「社会的評価を求める」という図式で矛盾しているとする。)「世間体に捉われない」は「社会から低く評価されない」という意味もあり、その点では「世間体に捉われない」と「社会低評価を求める」は一致しているのである。
「自分らしく生きる」ことは、社会の中で人々と繋がりながら生きている中で実現されるのであって、社会の中に位置を持つことは必要条件である。もともと生きていた社会環境が特別悪いものではない限り、そこへと回帰することは自然なことであり、むしろ、そこから脱出して生活しなければ「自分らしさ」を発揮できないのであれば、それは「自分を受け入れてくれる極小のコミュニティに逃避している」というのが妥当だろう。ムーンヴィレッジの事例でも、キーパーソンと他のメンバー何人かは「バラナシで再会」しているが、これはいかにもマニュアル化されたバックパッカーが行くところであり、そこで再会したということはバックパッカーが集まるところにいたということだろう。
生活型も旅のマニュアル化や商品化からは何ら自由ではなく、その枠組みの中で行動しているのではないか。
敢えてもう一度強調しておく。
移動型と沈潜型は、日本に帰って働くという意味で社会の一員として貢献する面があるのと比べると、遥かに
「寄生的」である。移住型は現地で宿の経営などをしているとしても、日本の社会保障制度にはタダ乗りしている。(健康保険も年金も税金が投入されているが、彼らは国内源泉所得がないなら、これらを払わずに制度を利用している。現地の税だって払っているかどうか怪しい。)このような寄生的な生き方を称揚するわけにはいかない。また、彼らの絶対数が少なく、脱法行為や違法行為を多く含んでいることなどから、彼らの実践を一般社会に共有される可能性も低いため、彼らがいかに創発的であったとしても、
社会を動かす力は小さいと言わざるを得ない。むしろ、地道な仕事を通していろいろなものを社会に付け加えていくということの方がまだ貢献度は高いのではないか。
批判的なコメントを長々と書いたが、本書は面白いということは確かだ。
★堀川三郎 『町並み保存運動の論理と帰結 小樽運河問題の社会学的分析』
33年にわたるフィールドワークの総決算的なものだけあって、運河保存運動や運河論争がいかなるものであったのか理解が深まった。従来の表向きの本で語られる内容には語られていないものが多くあると感じ、よく分からないと思っていたところが多くあったが、本書はそうした部分も含めてある程度踏み込んで書かれている。
本書の分析の重要概念である「空間」と「場所」という対比は、リベラル・コミュニタリアン論争を想起させ、「場所」概念にはコミュニタリアニズムの主張と共通性がある。リベラリズムは「普遍的なもの」を重視するあまり「愛着」の類を見ていないことをコミュニタリアンは批判したが、本書が「場所性」を組み込んだ空間理論を構築しなければならないというとき(p392)、コミュニタリアンと同じ方向の主張をしていると思われる。
第3章では、小樽の歴史が語られるが、
岸壁-倉庫-出抜小路-問屋街・銀行街という仕組みが説明されていた。出抜小路は都市を機能させるためのデザインであり、重要な役割を果たしていたという認識を得たのは収穫だった。
ポートフェスティバルは、イベントで運河周辺に人を集め、運河は経済効果のポテンシャルを持っていることを認識してもらおうという戦略から出ていた。この理屈を理解したのも収穫。
運河保存運動は、初期は凍結保存を掲げていたが、後期には(旧メンバーが死去などする中で)メンバーが外部から補給された。運河を観光資源として位置づけることで経済界による支持を獲得し、83年には百人委が発足。ここで運動が変質する。この
百人委こそ、その後の運動の瓦解へと繋がるものだったと思われる。この時に対立を決定的にさせた村上という人物は壊し屋でありスタンドプレーで目立ちたい人という印象。
「保存」の意味は、「凍結」静態保存から「変化の社会的コントロール」動態保存へとずれていった。このことにより運動は市民からの支持が得られ、経済界からの支持も得て力を増すことができた。しかし、このズレは運動内部の多様な主体が協調できず分裂する要因ともなった。このような本書の分析にはそれなりの説得力がある。
しかし、運動や運動の主体の内部に着目しすぎではないかとも感じる。例えば、経済界からの支持が得られたという外部環境の変化があり、このうち、運動内部の各グループは経済界(商工会議所)とどのように向き合ったか、といった社会関係にも分析の幅を広げた方が、より良い分析になるのではないかと思われた。なお、本書のインタビューは事後的な回顧的なインタビューが多いため、運動を担った人びとが「現在進行中」であった時とは必ずしも一致しない語りをもって現在進行中だった頃の意識であると仮定している点は多少問題に感じる。
内部に注目しすぎという批判は、次の点にも当てはまる。本書は運河論争が長引いた要因の一つを、アクターの認識(運河観、保存観、問題観)に求めている(p318-322)。この点にはあまり説得力が感じられない。むしろ道路建設がオイルショックによる予算不足で遅れていたことの方が大きな要因であると思うが、本書の枠組みではこうした指摘は出てこない。
運河論争が終わった後の現代の小樽の状況について
景観が次々失われているとしているが、
デザイン文法の変化についての指摘は重要と思われた(p375-378)。
★三浦英之 『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』
サブタイトルのとおり、満州建国大学の卒業生たちが戦後どのように生きてきたのかを記録している。この大学は満州国における「五族協和」という理念を実践するため実験場であり広告塔として国策により設立された大学であった。運営の体制は、国際化を謳いつつ9割は日本人教師であったことなど不十分なものであったが、
学生たちは真剣にこの理念を実現するために努力していた。しかし、
日本が支配するという前提のもとで「五族協和」と言ってみたところで、それは矛盾したものとならざるを得ず、挫折することを運命づけられていた。
建国大学に関して特筆されるべきことは、「言論の自由」があったことであり、日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの各民族を常に交流せざるを得ない環境に置くようにしたことである。
卒業生たちの戦後の状況は、満州国が日本の国策による傀儡国家だったが故に、ほとんどが語学力や学力と似つかわしくない不遇なものであった。日本人はシベリア抑留に遭い、中国人は共産党統治下で右派として批判され、監視や投獄されることもあり、(白系)ロシア人はロシアに送り返されないように隠れて中国の辺境に身を隠し、それでも発見されるとロシアへ送還され、中央アジアなどで労役させられた。韓国だけは建国大学卒業生を積極的に登用し政府中枢に取り込んだが(p201)、
いずれも各国の政府にとって都合の良いように扱われているという点には相違がない。
傀儡国家のエリートであったために、そこから母国に戻ると居場所がないという状況に陥った。
中国の卒業生を取材する際、当局の邪魔が入っていることに苛立ちを覚えた。日本の政策の失策など共産党に都合のよいことは言うことができるが、
長春包囲戦のような共産党が多数の中国国民を飢えさせて殺したという不都合な事実に少し言及しただけで妨害する。
このような姿勢を続けている中国共産党は、「日本の南京事件はなかった」とか「慰安婦に軍の関与はなかった」などといった日本のトンデモ言説と同レベルである。
★志田政人 『ルイス・C・ティファニー ステンドグラスギャラリー』
小樽芸術村の似鳥美術館にあるステンドグラスギャラリーのガイドブック。文章は必要最小限でありながら、このギャラリーのコンセプトや見どころをしっかり説明しており、図像を十分に見せているのが良い。
ガラスを重ねて表現することで絵付けを最小限に抑える技法は興味深い。そのために様々な種類のガラスを開発したことなども触れられているが、このあたりのことについてはもっと調べてみたいと思った。また、ティファニーが使った
ガラスを重ねる手法はどの程度一般的なのか、それともティファニーのみに見られる特殊なものなのか、といったことを知りたい。
歴史的な背景については、
19世紀フランスのゴシック建築修復を契機として欧米でガラス工芸が隆盛し、その中からティファニーが開発したような新技術も表れてきたという流れが見えた。その新技術の中にはジャポニスム、日本の技法を応用したものもあった(金工技術や「重ねの色目」を応用した)とする見方はやや日本に焦点を当てすぎているが、面白いと言えば面白い。

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