小樽市総合博物館で毎年3月に開催されている連続講義、博物館ゼミナール小樽学。今年は私の関心(のうち、建築からその土地の歴史を読むこと)とかなり近いテーマであったため楽しみにしていた。現在のところ、第1回と第2回の講義をきいてみたが、期待通り興味深い講義だった。
第1回は「小樽の軟石建造物の現状と小樽軟石について」というテーマ。小樽や札幌の歴史的建造物を見ていると、素材について「小樽軟石」とか「札幌軟石」という名前がよく出てくるため、これらの素材について名前だけは知っていたが、具体的にどのようなものなのかはほぼ何も知らない状態で講義を聞いた。
この講義の中でまず驚いたのは、小樽軟石と札幌軟石は小樽と札幌がこれほど距離が近いにも関わらず
全く違うものだということが分かったことだった。それまではこれだけ距離が近いのだから大した違いはないのだろうと勝手に思い込んでいた。
軟石は火山の噴出物が凝結したものとのことだが、札幌軟石は4万年前の現在の支笏湖の場所で起こった火山の大噴火によるものであり、火山灰が地上で固まったものだという。それに対し、小樽軟石は、いつどこの火山の噴出物なのかも不明であり、浅い水中で凝結したものだという違いがあるという。
このためどちらも凝灰岩という点では共通しているが、札幌軟石は地上で凝結したため溶結凝灰岩であり、同じ時期に同じような環境で固まったため比較的均質的だが、小樽軟石は水中で固まったことや、原料も異なる時期の異なる原料があるかも知れないことから様々なタイプがあり、ある意味では小樽界隈で採掘されるとはいえ、物質として同じものとは言えない面があるとのことであり、「
小樽産軟石」と呼ぶ方が適切であるらしい。
産地としては、現在の地名で言うと桃内、手宮、奥沢の3地区が主な産地であり、桃内は明治初期から採掘していた記録があり、手宮は手宮洞窟のいわゆる「古代文字」(壁画?)が残っているが、こうしたものが書けたのも軟石だったからだという。また、奥沢は「天狗山産」と呼ばれるとのことだが、これも明治10年代の後半には既に採掘されていたらしい。
なお、先日放送されたブラタモリでも花園界隈の地形が山を削ったものだということが紹介されていたが、これも軟石だったからこそ可能だった工事だということがよく理解できた。
さて、次いで小樽の石造建築については、明治6年頃から造られ始め、明治37年の大火を受けて明治41年頃が最盛期となったが、大正期になるとコンクリート造などへと移行して行った。
2013年現在、351棟が現存しているとのことで、その残存したものの建築時期と残っている地域の推移について紹介されていた。
明治期は137棟あり
海沿いが多く、大正期は76棟あり
少し山側に移り、昭和期は35棟で
山の手(緑や富岡)に多い。築年代が不明なものも101棟あるとのこと。残っているものだけからいつどこに多く建てられたかを確定することはできないのは確かだが、市街地の発展の経過などとも符合しているように思われるため、概ね時代と共に海から山へと新しい建築が移っていったと言って大きく誤りにはならないと私には思われる。
第1回の講義で最も興味深かった点の一つは、建築における素材の使い分けについての指摘だった。
博物館運河館の建物は本体は札幌軟石だが、中庭の仕切り壁は小樽産軟石であったり、一般に全体を小樽産軟石で建てている倉庫もまぐさは札幌軟石を使っていたり、アーチも通常の部分は小樽産軟石だが要石は札幌軟石を使っている事例、また外壁も正面は札幌軟石だが側面などは小樽産軟石である事例などが紹介されていた。全体に
硬度が必要なところは相対的に硬い札幌軟石を使い、そうでない部分は地元で取れる(その分安価な)小樽産軟石を使っているようだった。
そして、第1回の講義で興味深く、
危機感を感じたのは、重要文化財に指定されている日本郵船旧小樽支店の劣化についての説明だった。劣化を引き起こす要因には、水にぬれること(水が凍りになったり融けたりすることで石が割れるなど)、温度(プラスとマイナスをまたぐ回数が多ければ多いほど劣化しやすい)、そして、そもそも軟石は柔らかく多孔質であり素材として弱いことが指摘され、そのうちで最も人がコントロールできるのは水の問題であるという。
この建物の場合、陸屋根が壊れて水が壁面を濡らす状態が続いており、壁面が劣化している箇所が多数あるようである。このため屋根を直し、
水をコントロールすることでかなり劣化を防ぐことができるとのことである。
重要文化財にも指定されるほどの建築であり、特に佐立七次郎が設計した現存する数少ない建築の一つがメンテナンスが悪いせいで破損してしまうというのはあまりにもったいないと言わざるを得ない。今後の経過を注視したい。
第2回の講義については、次のエントリーで述べることにする。

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