◆改憲派の論拠5;平和を守るには武力が必要なこともある。また、平和や安全は努力して得るものである。
ここに問題の核心があるというのが私の認識である。よって、この問題に対しては後ほど議論することにして、このことが表面化して現れている場をまずは見てみることにしよう。そこには改憲派のある心理状態が如実に読み取ることができ、それを知ることによってこの論拠5の意味がより明白なものになるからである。
◆改憲派の論拠6;日米安保は平等ではなく不健全である。集団的自衛権を行使できるようにすることで、アメリカと対等の立場に近づくことができる。よって、アメリカと対等の立場になるためにこそ憲法を改正すべきである。
周知のように、日本政府の見解では日本は集団的自衛権を保有しているが、憲法との関係から行使することはできない、ということになっている。これに対して、ある改憲派の一般市民は「行使できないことで日本はアメリカに都合よく使われているので、使えるようにしたほうがいい」と言っていた。ある政治家も「一般的に集団的自衛権があると言っていいとは思わないが、日本に深くかかわる場合には集団的自衛権を使ってもいい」と言っていた。
しかし、私には「集団的自衛権を行使できることでアメリカと対等になれる」という理由がよくわからない。むしろ、護憲派の一般市民の意見の方が妥当であると思う。曰く「アメリカの独善的な政策に付き合いやすくするような集団的自衛権を行使できるようには、今はすべきではない」。
これも番組内で既に指摘されたことだが、日米同盟を前提しつつ、
「集団的自衛権を行使するというのは、日本が攻められることではなく、アメリカが攻められているときに日本が戦争に参加できるかどうかという話であって、あたかも日本が攻撃を受けている場合を想定して話すのはおかしい」。あまりにも誤解が多いようなのでこのことはいくら強調してもしすぎることはないであろう。
改憲派の意見の多くは、日本が他国から攻撃されることを想定して話されており、「集団的自衛権を行使できるようにする」という文脈からは外れているのである。
それにもかかわらず、一般市民のみならず国会議員までもがそのようになっていることに私としては注目したい。ここにこそ上述した「ある心理状態」が表れているからである。
第一に、
改憲派の人々の発言は、常に不安を感じ、それに対して、武力を自由に行使できるようにすることによって他者(他国)を威圧・威嚇し、それによって自己(自国)を防衛して安心しようという衝動に突き動かされているように見える。
つまり、
改憲派の見解はいずれも武力行使に集中し、武力によって自分を守りたいために、武力行使を「絶対的に必要なもの」として強調しようとする。これに対し、護憲派はそれ以外のことまで視野に入れながら、
多面的にさまざまな要素を考慮に入れた上でそれらの組み合わせの中から最善の方法を考えるべきだとすることで、改憲派の意見を「相対化」していく傾向があると言えよう。
このパターンは既に国際貢献に関しての議論でも同じであったし、改憲派が日米安保を軍事同盟として捉え、軍事面での対等な同盟関係をイメージしたがるのに対し、護憲派は例えば次のように述べているところにも表れている。護憲派として登場していた加藤周一氏曰く、「日本とアメリカとの関係は多面的であり、日米関係と日米の軍事的関係とは同じではない。安保関係を軍事的な面を強調するのではなく、もっと別の面を強調していくべき。そういう(多面的な)意味で安保を維持すればいい」。
この図式はもちろん多少の単純化を施しており、すべての議論が完全にここに当てはまるというものではないかもしれない。しかし、
改憲をめぐるほとんどの議論はこの枠組みに沿って行われているといえる。
第二に、改憲派の多くは抽象的な一般論に訴える議論をしているためにこうした初歩的な誤り(視野狭窄)を犯しているということも指摘しておいてよかろう。
その一例として、改憲派の人々に
「アメリカと対等の立場とはどういうことか?」と問いたい。
何をもって対等とみなすのか?全く明らかではない。しかも、「集団的自衛権」を行使することによってどうして、また、どのように「対等」になれるのか?全く明らかではない。
戦争に加担してやることでアメリカに「貸し」を作れるとでも思っているのだろうか?そうして加担してやることが
「大きな貸し」になりうるのは、例えば、アメリカと他の国の間の戦争で、一対一では勝機がないか、あるいは「五分五分」というときに日本が参戦することによって勝利を得ることができる――すなわち、
日本の参戦がアメリカにとって死活問題である――というような場合であるはずだ。しかし、アメリカと日本の関係は現時点および近未来においてはそういうものではないと思われる(★注2)。
(★注2)日本は外交関係においてアメリカに追随しすぎであるということについて、かなり多くの人々の間でコンセンサスができているように思われる。もし、このことを改めたいならば、「日本が(一国で)アメリカと対等」になろうとするのではなく、「アメリカと対等になれる程度の経済的/政治的/社会的影響力を持つ『共通利害に基づくグループ』を形成すること」が必要であると思われる。(われわれは一対一の「一国史観」的な発想からは早急に抜け出すべきであろう。)その意味で、中国、韓国やロシア、そして東南アジア諸国との関係はきわめて重要なものであるはずであり、当面、アメリカとは適度に距離を保ちつつ、そうした近隣諸国およびEUとの関係を重視すべきであると私は考える。この点からも、日本の輸出相手国として、アメリカを抜いて中国が一位になったことは、重要な意味を持ちうるのではなかろうか。
仮に、
百歩譲って、集団的自衛権を行使することが倫理的にも政治倫理的にも妥当であると認めたとしても、そのことが改憲派が望んだ結果をもたらすとは思えないのである。
むしろ、集団的自衛権を行使できるようになれば
「アメリカの世界戦略に組み込まれ、ますます利用されることになる」という護憲派の意見の方がはるかに説得力があるというべきであろう。
もっとも、そもそも同盟国が第三国に攻撃されたときに報復する(集団的自衛権を行使する)こと自体が良いことなのかどうか、ということこそが本当に問題とされるべきことなのだが…。
他にも指摘すべき点は多いが、それは措くことにしよう。むしろ、本稿では、上で指摘した改憲派の「不安の心理」と彼らの提示した論拠5とが深く結びついていそうに見える、ということに着目したい。
(つづく)

0