「江畑謙介「米国の誤り、イラクと北朝鮮の共通性」(その3)」
外交・軍事・世界情勢
さて、私は対北朝鮮政策についてどのように考えるのか?また、どのような点で江畑氏と前提を異にしているのか?
第一の点から。
基本的に北朝鮮に対しては経済的な援助を行うべきであり、周辺諸国と協力して北朝鮮の経済的な復興を継続的に支援していくべきである。臨時の単発的な物資の支援ではなく、もっと
中長期的に経済活動を活性化できるような措置が望まれる。社会的なインフラの整備などに日本のゼネコンなどが関与したっていい。(今すぐには無理だろうが。)農業や工業への技術的支援も有効かもしれない。とにかく、そういう方向性のことである。
残念ながら勉強不足で、私は東アジア情勢には詳しくないので、それほど詳しいことはいえないのだが、単発の食糧援助などよりもこうした継続的な支援を続けることに意義があると考える。
日本という国が北朝鮮の独裁政権を倒す必要はまったくない。
このような経済的支援の結果として、独裁体制の独裁制は必然的に弱まっていくであろう。現在の北朝鮮では人々は衣食にも事欠くような状況なのであろうが、衣食に満ちたりるようになれば、どのようなことが起こるだろうか?
例えば、情報面では、次第に、パソコンが普及してインターネットも
(監視などはあるだろうが、それは中国やロシアを見てもわかるように、それほど珍しいことではない。もちろん、望ましいことでもないが。)できるようになるだろうし、また、衛星テレビなどが普及することによって、外国からの情報が流入するようになっていくのではないだろうか?
さらに、単に情報面だけにとどまらず、優れた外国製品にも触れる機会が増えるであろう。たとえはじめはそうした恩恵に浴することができるのが一部のエリート層だけだったとしても、それは次第に模倣されながら中間層以下へと浸透していくという現象は、歴史的に広く見られることである。
このように物や情報などを浸透させていくことによって、一般の人々が外の世界に目を向けるようになれば、次第に閉鎖的で統制的なスタンスを取る自国の政府に対して批判的な運動が強まっていくと考えられはしないか?そして、そうした北朝鮮国内の人々の自発的な運動の結果、独裁政権の基盤は弱体化していくであろう。いわゆる先進国と呼ばれるような国ほど、デモクラシーが制度的に整備されている(正の相関関係にある)ことは、こうした動きによるものであると私は考えている。
もちろん、経済的にゆとりが生まれることと政治的な自由度が高まることは、それほど単純に結びついているわけではない。自由への障害や政治的な危機がさまざまな形で訪れるであろうし、独裁政権が必ず倒れるとも言い切れない。
しかし、それでも
周辺諸国との経済的関係を強めることで、北朝鮮の経済情勢がよくなるとすれば、北朝鮮は周辺諸国に対して「無謀な行い」をしにくくなることもまた確からしいのではないだろうか?(日本と中国との間の問題も想起されたい。)
北朝鮮国内の独裁的支配も緩まる蓋然性が高く、国際的にも強硬姿勢一本で通しにくくなるとすれば、こうした遠回りで地道な選択肢にも大いに意味があると考える。
これが私の対北朝鮮政策の基本的な方向性、骨組みである。
では、第二点に移ろう。
江畑氏と私との発想の相違はどこにあるのだろうか?
「いろいろある。ありすぎるほどある。」と答えるのが一番手っ取り早く、ある意味で的確であろう。(笑)
しかし、その中でも一番今回の話題にひきつけたところで語るとすれば、次の点であろう。すなわち、
独裁政権というものは広く見られる一般的な現象であって、奇異なものでない、という歴史認識を持っていることである。
そもそも、それに対置されることが多いデモクラシーの方が特殊なものに過ぎない、と捉えている。それは資本主義世界経済における富める地域(中核地域〜半周辺の豊かな部分)でのみ可能なものであると考える。すなわち、中核以外の地域が低開発化されることによって初めて成り立ちうる物質的な豊かさや知識・情報のセンターとしての機能(それに伴う金融のセンターとしての機能も経済の物質的側面と結びついている)、政治的リソースなどが「マタイ効果」によって世界のいくつかの特定の地域に集中する傾向を前提とすることによって成り立っている面があると捉えている。
したがって、貧しい地域でデモクラシーなどを定めてもそれほどうまく機能しない。より強い国々に圧力をかけられ、外交的手段などによって政治的に介入される国の政府においては、政治的な分裂は小さいに越したことはない、という一点からもそれは言える。(ほかにもまだまだあるが。)
そうした外圧が小さくてすむのは、すでに他国と比較して強い立場にある国の政府だけである。その重要な基礎のひとつは経済力である。
また、内政のレベルについても、北朝鮮の経済状態を高めるべきだとして述べたような諸理由によってデモクラシーとの適合性が高まる。
そもそも独裁政権というだけで危険なのであれば、世界中の大半の国は危険であり、北朝鮮だけを特別視する理由はない。せいぜい日本に一番近いということくらいだろう。(しかし、この点についても、韓国も比較的最近まではかなり独裁的だった。しかし、それは今は措くとしよう。)
余談になるが、独裁政権を絶対悪とする発想をそのまま翻せば、そうした人々はデモクラシーを絶対善とする発想にも陥ってしまうのではないだろうか?むしろ、こちらが先でその影として「独裁政権=悪」と判断しているのかもしれないが。
しかし、デモクラシーという政治制度がそんなに理想的だろうか?今の日本は一応、議会制のデモクラシーが制度化されている。そして、たいていの人が民主主義という言葉で思い浮かべるのは、おそらく、「人々の意見が政治に反映されること」というイメージであろう。にもかかわらず、現在の日本にそうしたものを見ることができるだろうか?
自衛隊のイラクへの派遣は国民の半分ほどが反対であるにもかかわらず、政府は「半々」の態度ではなく、まったく派遣を中止する気配さえ見せない。内政問題でも郵政民営化を重要課題だと思っている国民はほとんどいない。反対したり、いぶかしげに思っている人々も多い。にもかかわらず、現政権はそれを最重要に近い課題として取り組んでいる。このような政府が果たして民意を反映した政府なのだろうか?独裁政治と大差ないのではないか?政治的支配層が、かなりの程度勝手に振舞えるのだから。
このようにデモクラシーを難詰すると「それはデモクラシーが不十分だからだ」と弁護したくなる人もいるだろう。しかし、では十分なデモクラシーはいかにして可能か?また、そうした事例は歴史上に存在したことあがるか?と問うとき、果たしてそれに答えられるだろうか?
もちろん、私も、デモクラシーという制度を全否定しようというわけではない。それなりに意義のある制度である。独裁体制よりもましだということも当然に認めている。しかし、
現実に作動せざるを得ない制度を理想化するような知的スタンスに対しては、批判せざるを得ない。

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