毎年恒例の前年に読んだ本でよかったものなどについてメモしておく。前年は、これぞというほどの衝撃を受けるようなものはあまりなかったが、良い本との遭遇率は結構高かったように思う。
★待鳥聡史『代議制民主主義』
代議制民主主義における基本の論理として
委任と責任の連鎖に着目している点が特徴。代議制民主主義においては、「有権者→政治家→官僚」という委任の関係があり、
政治家や官僚は委任されたことに対して説明責任を果たすことを条件に裁量を与えられている。委任者の意向を完全に反映させることはもともと想定されていない関係であるが、無制限に裁量が認められているわけでもなく、説明責任を果たす、委任者をある程度の納得させられるような説明ができる範囲で委任されている。
本書はこうした点をクリアに見せてくれた。特にこの年は森友・加計問題や防衛省の日報問題などの国会での追求に対して、政治主導で情報の隠蔽を行ったことが見え見え(インフォーマルな命令により政治が行政に「忖度させた」と考えればすべてがクリアに見える)なのに、証拠は政治と行政の側が握っており決して出そうとしなかったことが問題とされた年だっただけに、
政府(安倍政権)は説明責任を果たさないが故に本来は委任を受けるに値しないということが明らかになった。(少なくとも本書のような視点をきちんと持っている人にとっては誰にとっても明らかになった。)
また、本書が強調するポイントの一つとして、代議制民主主義は
自由主義的要素(エリート間の競争による権力抑制)と
民主主義的要素(有権者の意思を実現させる)との緊張関係を伴うものであるという認識があるが、これも参考になった。特にマディソン的自由主義、すなわち多元的政治観による民主主義の抑制という考え方は、現在の日本で忘れ去られようとしている(権力側としては政治的分断を煽ったりすることで忘れさせようとしている)と思われ、重要である。
民意を金科玉条のように掲げて民主主義を強調し、自分たちの意思が実行されていないとして不満を募らせるというのが現代の多くの国で共通して見られる政治状況だが、民主主義は暴走するものであり、それを制御するために自由主義的要素による勢力均衡などの考え方を十分に機能させることが重要である。また、委任と責任の連鎖の観点からは、有権者は代議士や行政に対して、どのように委任し、どのように説明責任を果たさせるのか、といった点を改善することが重要であり、徒に「民意」を絶対視することは望ましくないということが本書の議論から導き出されると思う。
なお、この点は後に取り上げる『多数決を疑う』による議論によって補強することができると思う。
本書から得た収穫をもう一つ挙げると、
第二次大戦後に各国でベビーブームが起こり、この世代が学生となった60年代末に異議申立て(代議制民主主義への懐疑)が示されたが、この隠れたテーマは民主主義要素の強化であった(p68-69)という、世代論による60年代末の世界的な「反システム運動」を説明している点には説得力があった。この異議申し立てで民主主義要素が強化されることなく挫折したとき、70年代に経済成長が鈍化したことから自由主義的要素が再台頭(p71)することになったとするのも興味深い説明だった。
★水島治郎 『ポピュリズムとは何か』
本書はポピュリズムがデモクラシーの随伴現象であり、
エリート批判の要素が現代のポピュリズムでは重要だとする。ポピュリズムには解放の論理と抑圧の論理があるが、現代の後者のタイプの言説は、
リベラルなデモクラシーの論理を取り込みながら排他的主張をしており、このような「内なる敵」とは戦いにくいことを指摘する。
以上から、安易にエリート批判に乗るのには慎重になる必要があると私には思われた。また、「内なる敵」との戦いには批判的な能力が必要とされることも理解できた。ただ、本書は現状の傾向を理解する上では役立つが、今後、どのようにポピュリズムの問題を解決していくかということにはほとんど言及がないということは指摘しておきたい。ここから先をどう考えるかという課題が突きつけられている。
★野崎敏郎 『ヴェーバー『職業としての学問』の研究(完全版)』
『職業としての学問』の既存の訳、特に私が繰り返し読んだ尾高訳(岩波文庫)がこれほど誤訳に塗れており、決定的な箇所でも致命的な誤訳が横行していたことに驚くとともに、他のウェーバーの作品との整合的な解釈などが示されている点で本書の研究内容にはかなりの信頼がおけると思われた。特に「専門内自己閉塞説」についての批判は既存の訳によって私も誤導されていたところだった。
また、『倫理』論文は禁欲的プロテスタンティズム批判の書であるのに、訳者によって禁欲的プロテスタンティズム称揚に利用されてきたこと、『学問』も専門内自己閉塞からの脱却について書かれているのに、訳者によって専門内自己閉塞を強要するものとされてきたという指摘は非常に参考になった。戦前の日本の社会科学者の心性や自己弁護に使われたため、このようなことになっているという(p377)。
以上のような著者による過去の訳者たちやウェーバー研究者への批判は、かなりの程度当たっているとは思われるが、自身の通ってきた道こそが王道であり正しい道だという偏狭さも感じさせる。大塚久雄のような権威主義的なスタイルで他者の解釈を「誤読・誤解」とするようなやり方と重なる部分があるように見えるのは気になる。
★渡辺悌之助 『小樽運河史』
小樽運河はまず小樽港の埋立を知るところが起点となる。人が活動しやすい勝納川周辺と港として最良の手宮・厩を繋ぐように埋立が必要だった。埋立には立岩という岩が起点となり、まずは現在の港町と堺町のあたりが埋め立てられ、これが有幌から色内・手宮へと繋がっていく。鉄道が出来たことで会社や銀行が進出し、人口が増えると土地が足りなくなり埋立が必要となる。
明治32年の町営埋立申請が北炭の思惑と対立し、政治的党派の対立とも関連して大きな問題となって行く。明治42年には廣井勇の発言があり、第三回の設計変更が行われたが、反対党派(埋立研究会)や鉄道院の埋め立て計画などもあり明治43年に第四回の設計変更。その後もスムーズに進まず大正3年の道からの照会をきっかけに区会で論戦となりようやく大正3年に第五回の設計変更で許可が下りる。設計に18年、起工から竣工(大正12年)まで10年をかけて運河は完成した。この間に艀による輸送は時代遅れになっており、竣工から間もなく埠頭の建設となった。大正13年から昭和4年頃が小樽の絶頂期であり、この頃には運河は当時の運河としてはかなりの効率的な機能を果たしていた。
運河の工事は北から順に四区に分けて行われた。現在の北運河は一区と二区あたりか。浅草橋から北は三区で、南の埋められたのが四区。この順に建設されたので北には古い倉庫があり、南の方が新しいものとなる。今まで陸側が古く、海側が新しいということはよく言われていたが、南北の相違に着目した説明は本書の特徴であり、
運河が出来て行く歴史を追っているが故に北から南へということが見えてくるのであろう。この点が興味深いところ。この観点からは北浜町と南浜町というかつての町名はものを見る際に意味を持ってくるように思われる。
なお、勝納川から大橋までの第二運河についての記載も興味深い。思い切り要約すると、海側の鉄道院の埋立と陸側の市の埋立が行われ、これらの間に第二運河が成立した(昭和11年)。
★小川洋 『消えゆく限界大学』
近年の入試は推薦4割、AO1割弱、一般入試5割。推薦とAOが多い背景には
文科省が定員を守るよう通知を出していることがある。これらの入試は入学者数が確実にわかるが、一般入試は辞退率を見誤ると定員割れや定員超過が起こってしまい、私大にとっては都合が悪い。
また、
一般入試の数を絞ることにより、偏差値が高く出る。これはブランド価値を高める効果がある(p.27)。団塊ジュニアのような学生数が多かった時代と比べて現在の各大学の偏差値がほとんど変わっていないことに違和感を覚えていたのだが、本書のおかげでその理由がようやくわかった。
本書によると、定員割れを起こしている大学は、短大を母体とする大学が多い。短大は団塊世代とジュニア世代が進学する時期に安易に開設されたものが多く、ジュニア世代が入学する頃には閉校となってもおかしくなかったが、たまたま第二次ベビーブーム世代の入学と重なったため生き長らえ、臨時収入も得た。そのベビーブーム世代入学の整理期間が経過していくと定員割れが表面化し、苦し紛れに四大化していった。その際、短大の学科(すでに高校生たちから敬遠されているものが多い)をそのままにして四大化するような安易な選択をした。大学と短大は大きく性格が異なるが著者によると短大から四大になった学園の理事たちはそうした違いを理解せず、中長期的なビジョンもなく無策のまま過ごすことで定員割れが続くこととなるという。
短大上がりの経営者たちに対する否定的な評価とその裏返しとしての「経営手腕さえあればうまくいく」というような発想には違和感を感じるが、現在の大学を取り巻く事情について、数量的にある程度把握できるので参考になった。
★マーティン・バナール 『『黒いアテナ』批判に答える 上・下』
主張の内容自体は当然ながら『黒いアテナ』と基本的に同じだが、バナールが扱っている分野の問題では「立証」はほぼ不可能であり、
「競合的妥当性」によりどちらの説が優位かという競争にならざるを得ず、それにより比較すべきだという主張は参考になった。
この競合的妥当性を判断するにあたっては、
レヴァント、エジプト、エーゲ海の相互の関連の中で理解しなければならず、青銅器時代の間ずっと、エーゲ海地域に対してはエジプトやレヴァントからの介入や影響があり、後者の方が学問や技術などが発達し、政治的にも勢力が大きかったことから影響を与える方向性は
南東から北西へというのが基本的な方向性であり、これを支持する証拠は十分にあるというのがバナールの主張である。
また、第X部歴史記述では、17〜19世紀前後のヨーロッパの人々の考え方(啓蒙主義やロマン主義・実証主義)と、それがその時代の歴史叙述に与えた傾きについて議論される。全体として、
ゲッティンゲン学派が
「史料批判」という(実証主義的)方法論により狭い立証を求めるようになり、この方法論が当時のギリシアを孤立した孤高の存在として描きたい(エジプトやレヴァントに従属して影響を受けたことを否定したい)という願望と相俟って、「古代モデル」側に対して立証を要求することで歴史叙述のアーリアモデル的な書き換えが進んだとバナールが考えていることがわかった。
そして、バナールにおいて特徴的なことは、
18世紀の啓蒙主義と19世紀のロマン主義・実証主義は対立するものではなく、人種差別の発想においては連続し、強化するものだったとする点であり興味深い。いずれもヨーロッパは唯一の理性的な大陸であると考えている点で共通しているという。
第9章ではスコットランドとイングランドの教育や社会状況が対比されている箇所があり、興味深い(p357-360)。それによるとイングランドの大学教育が紳士を養成するものだったのに対し、スコットランドはより実践的であるという。イングランドにはオックスフォードとケンブリッジしか大学がなかったのに対し、スコットランドにはより多くの大学があったことも指摘される。そのように言われてみると、
17-18世紀頃の「イギリス」の思想家とされる人の多くは「スコットランド」の人が多かったのではないか。この点はもっと掘り下げて調べ、考えてみたい。本書から得た課題。
★前田健太郎 『市民を雇わない国家』
1960年代から公務員数の抑制が行われたため日本は他国(戦後の高度成長により公務員数が増加し続けた)より公務員数が少ない国になった。その要因は人事院勧告による公務員給与制度にある。政府が公務員給与をコントロールできないため、人数を抑制するしか公務員人件費総額の増大を防ぐ手段がなかった。60年代には固定相場制の下で、現在とは全く異なる金融・財政環境があったため固定費用を減らし自由に使える予算を確保する必要性を財政当局は感じていた。
私も日本は公務員が少ないということは知っていたが、確かに何故他国より少ないのかという理由はあまり考えたことがなかった。意外なメカニズムが作用していることがわかり興味深かった。
特に、人事院勧告の制度は、制定当時激しさを増していた公務員の労働運動を抑えるために採用されたが、その後、民間の給与が上昇し、それと連動することによって、公務員の人件費を上昇させる要因となってきたという点が興味深い。
公務員の労働基本権を回復すべきかどうかという問題があるが、公務員の人件費と財政赤字とには国際的には相関関係がないことを考えると、財政改善のために公務員の人事や給与の体系を変えるというのはあまり意味がないかもしれない。
★坂井豊貴 『多数決を疑う』
多数決は票の割れに弱いという大きな弱点のある集約ルールであることが指摘され、より優れた選択方法としてボルダルール(ペア敗者基準を満たす唯一のスコアリングルール)と最尤法(ペア強者規準を満たす)が主に紹介される。
私としては現在の選挙制度に大きな不満があるのだが、小選挙区制をやめて比例代表などを多くすべきだということを考えていたが、多数決という集約ルール自体はあまり問題視したことがなかったため、本書の指摘は新鮮であり非常に参考になった。
個別の問題についての指摘についてコメントすると、まず、
最適な改憲ハードルは64%多数決であり、現在の憲法や国民投票法のルールはハードルが低すぎるという指摘には非常に納得した。選挙制度が小選挙区制のタイプに全体として寄ってしまったことは、改憲をせずに改憲のハードルを下げるものだったという指摘も重要。
次に、
直接民主的な投票は代表民主制を必ずしも否定せず、実質的民主性を組み込むための補強パーツであるという理解などが参考になった。
さらに、民意ということがよく言われるが、
民意などというものが存在するというより単に集約ルールの結果があるだけだという指摘は目から鱗だった。
(選挙の結果、多くの議席数を獲得したとしても、それは民意を受けていたり反映しているということには全くならない。単に現在の制度の制約の下で集約した結果としてそうなるに過ぎない。自公のような組織票を持つ政党が協力し、しかも、恣意的に解散を行うと、それ以外の政党ではほとんど逆転することが難しいルールとなっている。安倍一強と言われるが本当は脆い基盤の上にいるというのは、こうした理解に立てば理解できる。本人たちもそのことを感じている、つまり、多くの人から強い支持を受けているわけではないことを知っているから姑息な手段を常に使い続けている。)

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