表記の講義で興味を惹かれたポイントについてメモする。
◆日本銀行の北海道における支店の展開についての説明より。札幌出張所が1895年に閉鎖されてから1942年に札幌支店が開設されるまで
50年近い期間、札幌には日銀の支店等がなかったという事実の指摘は大変興味深い。札幌は戦後に急速に発展したが、戦前は行政的には重要な都市であったが経済的には今一つパッとしない都市だったということが表れているということか。
◆樺太領有と喪失が小樽の経済の興隆と没落の要因になっているという説に対して、講師の原暉之氏は検証を要すると指摘していた点は興味を惹かれた。私としては樺太の小樽や北海道の経済にとっての役割については特段疑う理由はないと思っていたが、このあたりはまだ学問的には実証されていないということなのだろうか?
◆明治期の交易に関して言うと、樺太よりウラジオストクが重要な意味をもっていたという。日露戦争前の時期について言うと、ウラジオストクには3,000人近い居留者がおり、開戦時の引き揚げ者は4,000人近かったのに対し、サハリンは渡航者数こそ7,000人以上いたが、引き揚げ者は341人しかいなかったという資料があった。
ウラジオストクは住んでいる人が多かったので、彼らに日用品を供給する市場が成立しえたが、サハリンは住んでいる人は少なかったためそうした余地はなかった。
また、ウラジオストクなどへの
渡航者はこの時期には北海道よりも九州(長崎、熊本)からの人が多かったというのも興味を惹かれた。
台湾への渡航者も九州周辺が多かったと記憶しているからである。
◆開拓使がロシア側との往来により、ロシアからもいろいろと学んだことがあったということも興味深い。ビールや缶詰などの貯蔵の方法、馬車や橇、寒冷地建築など。特に建築は見てみたいが、篠津の丸太校倉造り兵屋はどうやら現存しないらしく残念。
◆1900年前後の北海道の港湾に関して、
函館は漁業貿易で圧倒的なシェアを持っていたことが分り興味深かった。
小樽は漁業貿易よりも食品や石炭などの貿易港だったということ。函館と小樽の港には性格の相違があったという理解は重要と思われる。
◆日露戦争後、小樽の人口の増加のペースが鈍ったというデータも興味深い。私見では南樺太に流出する人がいたのではないかと推測する。

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