私が日々愛読しているブログの一つに
「米国からの便り」がある。特に歴史修正主義の主張に対して、「秘孔をついて」(笑)否定してくれる痛快なブログである。
そのブログで先日、非常に興味を惹かれる見解が述べられていた。ブログ管理人ケンシロウさんによると
「日本は超重税国家」であり、「日本はその(権力者にとって)いいとこ取りの低福祉 高負担の国」だという。
これは私の見解とは
相容れない意見である。私の見解では
「日本の財政を通覧すると、税と社会保障の負担は軽く、福祉は低水準から中水準で、現在の借金の基礎部分は90年代の増税なき公共事業によるもの」という見方だからだ(★注1)。
(★注1)なお、90年代の公共事業が「無駄だった」という立場はとらない。新自由主義的な財政学者たち(例えば井堀利宏)でさえ、統計的に分析してしまえば、「ある程度、景気を下支えする効果はあった」と評価せざるを得ないというのが事実だからである。問題は、90年代の公共投資の内容であり、後々まで役立つものを作ったわけではなかったことであり――なお、このようになった原因は、中央政府と地方政府の政府間の制度上の関係と中央政府による地方交付税(裏負担に交付税措置を利用して地方政府を誘導)と補助金の「誤った運用」によるところが大きい――また、租税体系全体として累進性を低めたことによって債務を回収できなかったことであり、90年代が終わり「2000年代になってから」は社会保障給付が財政上の負担になり始めたのが、それに備えるだけの税と社会保障の体系を整備しなかった(自民党を中心とする与党が先延ばしにしてきた)ことである。
そんなわけで、ケンシロウさんの主張を少しばかり検討してみたので、その内容を報告したい。
ケンシロウさんが上記の主張をする論拠となっている文章は以下の部分だと思われる。(全文は
こちらを参照)
元スウェーデン大使で、財務省出身の藤井威氏の推計によると、日本とスウェーデンとの国民負担率比較で、租税・社会保障負担率は、日本の28.8%に対しスウェーデンは51.6%と大きいが、社会保障給付費や公財政支出教育費を差し引いた修正国民純負担率は、日本の14.0%に対しスウェーデンは 11.9%で、逆に日本の方が大きくなり、骨太方針で語られていることはずいぶん違うことが分かる。
このソースは、恐らく、
この報告書に載っているものと同じだと思われる。数字が完全に一致するからだ。
(ちなみに、このテクストは内閣府の経済社会総合研究所の報告書「スウェーデン企業におけるワーク・ライフ・バランス調査」の一部である。)
このうち、重要なのは次の表である。
(図表2-6-2)日本とスウェーデンの国民負担率対比表(対GDP 比)(1998 年)
スウェーデン 日本
租税・社会負担率(A) 51.6% 26.8%
一般政府財政収支(B) 2.1% −5.5%
修正国民負担率(C=A―B) 49.5% 32.2%
社会保障給付金(D) 31.0% 14.7%
修正国民純負担比率(E=C−D) 18.5% 17.6%
公財政支出教育費(F) 6.6% 3.6%
再修正国民純負担比率(G=E−F)11.9% 14.0%
(注)再修正国民純負担比率の算出方法は、以下のとおり。
再修正国民純負担比率=租税・社会負担率−一般政府財政収支−社会保障給付金−公財政支出教育費
(資料)OECD(1998)‘Benefits and Wages publication series.
注をみると「
再修正国民純負担比率=租税・社会負担率−一般政府財政収支−社会保障給付金−公財政支出教育費」とある。
この式に私の批判のポイントが含まれているので、よく見てほしい。
結論から言うと、
この「再修正国民純負担比率」という数字を比較してわかるのは、主として、税と社会保障の負担に対する「社会保障(年金や福祉)」と「公財政による教育」による給付(受益)の度合い、に過ぎない。(ケンシロウさんは、それを見落として、日本ではあたかも
「全体としての純負担が大きいかのように言っている」点で誤っている。)
以下、上で述べたことを詳解し、少しだけ私の意見を述べる。
「再修正国民純負担比率=租税・社会負担率−一般政府財政収支−社会保障給付金−公財政支出教育費」とあるが、これを一人ひとりの人間の立場から受益と負担を分けて、各項目を列挙すると、
租税・社会負担率 は 負担全体
一般政府財政収支 は 全体として負担(+)か受益(−)か
社会保障給付金(対GDP比) は 社会保障による受益
公財政支出教育費(対GDP比) は 公教育による受益
を意味することになる。
当然ながら、社会保障給付金と公財政支出教育費の2つの項目は、一般政府財政収支の中に一度含まれている。それを再度使うということは、これらの要素を比較対象としているということを意味していると思われる。
このこと(すなわち、再修正国民純負担比率は福祉と教育に特化した指標にすぎないこと)を明確に意識した上でケンシロウさんの記述に戻ると、
少し言い過ぎているとわかるのではないか。例えば次の箇所。
◆「日本は超重税国家。」
◆「つまり払った額から返ってくる分を引くと、日本の方が負担が大きいのである。」(これは宮本氏の発言の抜粋か?どこの抜粋かよくわからなかった。)
◆「日本はその(権力者にとって)いいとこ取りの低福祉 高負担の国」
「返ってくる分」が社会保障と教育に特化されているのだから、「日本の方が負担が大きい」というのは、
「払った額に対する社会保障と教育の受益は日本の方が小さい」とまでしか言えないはずである。
また、最終的な結論として「日本は超重税国家」とか「高負担」と言われているが、これはさらに疑問である。むしろ、
税と社会保障全般についての純負担について言いたいならば、上記の表の数字で言えば、「修正国民負担率(C=A―B)」を使うべきであり、スウェーデンは49.5%で、日本は32.2%となるはずである。ここからは「日本は超重税国家」という結論は出てこない。
むしろ、
一般政府財政収支がマイナスになっていることから分かるように、(あえて挑戦的な物言いをすれば)「超重税国家」とは反対に、
日本の納税義務者は受益の割に負担が少なすぎだとさえ言える。払った額より受けている額の方が大きいのだから(★注2)。
(★注2)なお、日本の人々の多くが「負担感」を強く感じるのは、メディアによる行政や政治家の汚職などの報道の仕方も大きいが、基本的には、給付の水準が低すぎるために、受益を実感する閾値を超えていないからであると私は考える。
とりわけ、選別主義的な給付であるために、給付を受ける人の数が少なく、そのために給付を受けている事実を目にする機会が少ないことは大きいのではないか。例えば、知人や親類などで給付を受けている人がそれなりにいれば、福祉の給付が役立っていることを実感できるが、そういうことが少なければ少ないほど、負担は目に見えるが受益の様子は見えないので、負担感だけが大きくなる。
この問題の解決も受益を実感できる給付水準を維持するために、負担を増やす、という逆説的なものにならざるを得ないと考える。
したがって、「日本は超重税国家」というよりも、
神野直彦氏のように、「
日本はすでに小さすぎる政府になっている。小さすぎる政府の大きすぎる借金に問題があるわけで、大きな政府の大きな借金にしておけば、借金はコントロールできる。財政を動員して社会的な病理現象を解消し、有効な公共サービスで社会の安心・安全を取り戻すことが重要な課題である」と言う方が適切である。
私はほぼこの神野氏の見解と同じような考えをベースにして、
「歳出の無駄」という「一見もっともらしいこと」――実際は多くの人にとって短期的に都合のいいことでしかないが――を言って「負担=問題の先送り」をするのではなく、
累進性を高める形で増税することが第一だ、と以前からしばしば主張をしている(★注3)。
(★注3)なお、現時点で言えば、歳出の削減についてはMDなど「使うわけないだろ?」っていう防衛費の一部を削減するのが第一であるが、それで足りるなどというのは甘すぎだと考える。
増税は必要であり、その際、まずは法人税の定率減税の撤廃が第一であり、法人税と所得税の累進性を高めることがその次であり、所得税と個人住民税の分離課税を廃止していくのがその次であり、相続税や贈与税の課税最低限を下げ、累進税率を上げるのがその次である。そして、消費税を増税する場合には、累進消費税にしなければならない、というのが私の基本的な見解である。
終わりに、ケンシロウさんのエントリーに対する私の評価と、今後の税財政を巡る発言をする際に必要な言説はどんなものなのか、ということについて述べて締めくくりたい。
ケンシロウさんが提示された論点は、通常、財務省が「国民負担率=租税・社会負担率」の低さを前面に出して、「負担」の面だけに着目しながら増税を認めさせようとするのに対して、「国民純負担率」を用いることによって「給付」の側面、つまり、
「日本では給付が少ないじゃないか!」ということを浮かび上がらせている点で意義があることだと思う。その点に関しては、とても良い問題提起をしたエントリーだと思っている。
ただ、その場合の「給付」が社会保障や福祉、教育の面に特化した指標だということを見落としていた点で、主張がやや飛躍してしまったにすぎない。
「着想の良さ」に比べれば、誤った点は技術的な問題でしななく、二次的なものにすぎないと思っている。
例えば、福祉や教育以外の受益としては公共事業がある。しかし、公共事業と言えば、近年の世論では即座に悪者と考えられてしまっているが――実際に問題があるにせよ――そこから労働機会が得られ、それによって福祉の給付を受けずに済んだり、その労働によって作られたものから目に見えない形での利益を受けていることはあるのだから、日本に住む人々の「受益」は単に「福祉と教育の受益」だけではない。残念ながら、ケンシロウさんが出した指標(再修正国民純負担比率)では、これらの「見えにくい給付」が軽視されてしまい、
日本の財政を通した「受益」の水準が不当に低く評価されていると思われる。
健全な社会の一つのモデルとして、
北欧型の「高福祉高負担」の社会があると思うが、私も日本はそうした方向に進む方が良いと考えている。恐らく、北欧好きの(ですよね?)ケンシロウさんもそう思っているのではないかと思う。しかし、そのためには、今の日本の世論に見られる
「増税忌避」の発想こそ打破すべきものであって、日本が「重税国家」であると言うことはむしろ得策ではない(目的合理的でない)のではないだろうか?
なお、これは野党にも言えることで、
「消費税の増税」を狙う与党と論戦する際に「増税反対」で臨んでも勝ち目はない。野党は「庶民増税」には明確に反対した上で、システム全体のバランスをとる累進課税の正当性を説きながら、具体的な税目を「どのように変えるか変えないか」を巡って、与党の主張を「各個撃破」する必要がある。
【続きのエントリー】
◆
増税に反対?消費税増税に反対? 2007.12.17
【追記】2008.1.10
こんなデータも見つけたので、見てみてはどうだろうか。
税収の国際比較(対GDP比、2004年)
このデータにつけられた次のコメントにも概ね同感だ。
日本の税金は米国や韓国とともに国際的に見ると非常に低い部類に属している。税収の推移についてふれた図録5107で見るとおり、こうした特徴はこの40年間変わっていない。
所得税や法人税など所得課税では韓国に次いで対GDPが小さく、消費税、付加価値税などの消費課税では米国に次いで対GDPが小さい。
図録1157で見たように各国の中で最も高齢化の進んだ国である日本としては、もちろん社会保険との分担によるものの、年金や医療、介護などの社会保障にかなりの税金を使わなければならない状況にあることを考え合わせると、こんなに税収が少なくて何とかなるのという印象はぬぐい得ない。
この税収では「何とかなる」わけないだろう、というのが私の意見だ。

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