今日(正確には昨日)、テレビ東京系の『カンブリア宮殿』なるテレビ番組を見た。竹中平蔵が出て「地方の格差」がテーマだというからだ。
見てがっかり。竹中は何も内容のあることを言わなかった。
あまりの内容のなさに私はビックルを一気飲みした。
自治体の財政状況とその自治体の経済活動とは漠然と思われているほど関連しているわけではないのに、それをごっちゃにして紹介されていたりするあたりからして「それじゃ問題は解けるわけないじゃん」という感じだった。
自治体には歳入にも歳出にも十分な自己決定権がない制度になっており、中央政府が「ばら撒き」(ケインズ的な財政出動)を奨励していた時期には、それが不要なものであっても自治体にはそれを断れないシステムになっている。
こんな基本事項さえ紹介しないで、一体何がわかるというのか?(これらに関しては鳥取県知事の説明も全く不十分なものだった。)
(逆も然りで、現在のように中央政府が緊縮財政を強いれば地方政府は決して放漫財政を続けることはできない。日本では財政自主権がかなり強く統制されているからだ。そんなことは地方税法を見ればすぐわかる。)
「高度成長の頃は中央政府が全国に所得再分配をしてナショナルミニマムを確保できたが、今は(政府に)金がないからそれができなくなった」などと村上龍も言い出す始末。
しかし、ちょっと考えてみると(ほとんど考えなくても)わかるのは、
「政府に金がない」ということは「国内のどこにも金がない」ということを意味してはないということである。ということは、課税すべきところに課税すれば良いのである。まず手始めに法人税と所得税の累進性を高めること、所得税の分離課税を廃止するだけでもかなり違ってくるはずである。
竹中平蔵曰く「地方から見ると東京はよく見えるが、東京も上海やシンガポール、N.Y.などとの競争にさらされており、地方に金を渡せない。地方は自立しなければならない」だそうだ。
もしそうなら地方から東京への人の移動(移住)は禁止しなければおかしいだろう。なぜならば、
労働力などの面から見ると東京は「自立していない」からである。この点に関して今回は詳述しないでおくが、一言だけ付け加えるなら、
「東京等の大都市に公共投資などを集中させて世界の他の都市との競争に勝つ」という目的のために、同じ政治的権利を持つべき人々が住む田舎の人々を切り捨ててよい理由にはならないはずだ。日本の大都市の経済的勝利が全国に還元される場合にこそ、そうした政治的判断は妥当性を持つのではないか?つまり、
同じ重さの一票と同じ法的権利を持つ人々が政府に信託した権限を、一部の地域のために使うのは不当だってことだ。
話を番組での竹中の見解に戻すと、
「地方の自立」のために何が必要なのかということについて、竹中が言うのは「努力」「がんばる」の一点張りである。これは小泉首相なども同じである。
新自由主義ではこういう発想以外は生まれようがないのである。(このことについては以前、新自由主義の「無策」として批判しておいた。)
なぜならば、「市場に任せればすべてうまく行く」というのが発想の基礎にあり「(新古典派経済学が想定するような意味での)理想的な市場は存在し機能している」という現実離れした認識を暗に前提しているからである。
この暗黙の前提の下に立ち、さらに歴史的な背景(政治、交通、社会慣習、法体系など)を無視するならば、努力すればかなりの確率でそれなりにうまくいくはずだからである。というのは、もともと、
状態が「収束する」ように図式が整えられているから。(市場原理主義的な意味での空想的な市場では平等化の傾向をもつ。)
そして、その上で次のような認識がある。
@「がんばっているところは、ある程度何とかなっている。」
A「どうしようもないところは、がんばっていないところである。」
これが論理的に正しくないのは言うまでもない。
@が正しいと仮定しても、そこからAは導かれない。
そうした推論は誤りである。
もちろん、竹中が仮定している@も正しくないのだが。
まぁ、いずれにせよメチャクチャな話だった、ということである。スポンサーの企業の顔ぶれを見ても、いかにも財界の意向を反映した番組というのがミエミエなので、予想通りといえば予想通りではあったが、こんなものがまかり通っている状況には危機感を感じる。
本当は共謀罪とかいろいろ書きたいのだが、調べている暇さえないので、なかなか書けないでいる。
新自由主義批判が表面化してきたものとして「格差」の問題に極力集中することが今年のこのブログの大きなテーマだと思っているので、格差関係の話だけは(それでも10個に1つくらいの割合でしかないが)思ったことを記録してみた次第である。

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