これまで何度も「格差」について書いてきたが、まだ幾つか
強調しておきたいことがある。
第一は、
「格差」を容認する人の基本的な論拠は、暗黙のうちにどこかで――ほとんどの場合、本人も気づかずに――「機会が平等」であると前提しているということ。
「人によって能力や努力に違いがあるのだから、得られるものが違っても良い」などという議論はその
典型である。
しかし、もし実際には機会が不平等ならば、能力も努力も比較のしようがなく、逆に得ている結果から能力や努力を推定するというトンデモない誤りを犯すことになる。そして、実際に極めて多くの人がこんな初歩的な誤りを犯している。
第二に、以上と深く関連することなので、再度書かなければならないのは、
現在の日本では職業に関する機会は不平等だということである。
以前、
「格差についてのノート(その1)」という記事で述べたことを再掲しよう。
「日本社会のエリート層(上層)の大部分をなす「ホワイトカラー上級職」への「なりやすさ」は、当人の父の職業と深い相関があることがわかっている。
佐藤俊樹『不平等社会日本』によれば、
団塊の世代では、父親がホワイトカラー上級職だった人は、そうでない人と比べて約8倍、ホワイトカラー上級職になりやすい、という統計がある(p.59)。」
(引用終わり。下線と文字拡大は引用時に付加。)
この事実に対して十分な批判・反論ができない限り「機会が平等である」という前提は捨てなければならない。つまり、機会がそもそも不平等であって、何かに挑戦するにしてもスタート地点からかなり大きなハンディキャップを背負った人たちがいる、という事実を前提しなければならない。
第三に指摘しなければいけないのは、小泉の今回のメルマガにもあったのだが、あたかも
「格差のない社会」は「活力がない社会」であり、「格差がある社会」の方が「活力がある社会」であるかのような漠然としたイメージを持っていないか?ということである。
端的にいえば、これは
短絡である。「機会の不平等」は非常に見えにくいので、それよりはわかりやすい「所得格差」について述べる。
確かに様々な点から見て経済力が世界一と言えるアメリカは格差が大きい社会だと考えられる。アメリカだけを見ていると一見、これは結びつきそうな気がしてくるから不思議だ。しかし、世界はアメリカだけではない。
橘木俊詔『企業福祉の終焉』のp.178にある「図4-2 先進諸国における国民負担率と経済活力の関係」によれば、2004年の世界競争力の順位と国民負担率
(これは政府がどれだけ平等化に力を入れているかの指標となると私は考える。)は次のようになっている。
(ちなみに、このデータの出所は2004年11月21日の日経新聞である。)
競争力 国民負担率
1位 フィンランド 64.9%
2位 アメリカ 35.2%
3位 スウェーデン 74.3%
4位 デンマーク 74.7%
5位 ノルウェー 59.6%
6位 スイス 37.0%
7位 日本 36.1%
8位 アイスランド 54.1%
赤い文字で表示した国は負担率50%超であり、平等化に対して相応の力を入れている国を示している。
もし、これを見ても「格差のある社会」が「活力のある社会」だというのならば、相応の根拠を示さして主張するか、この内容を十分に批判しなければならないと思う。
むしろ、上記のような短絡をしてしまう背景にあるイメージの一つはいわゆる
「悪平等」への嫌悪感であろう。これが第四の点である。
幾つかのブログを見て回って気づくのは、
「悪平等」を指摘して格差は必ずしも悪くないと主張する人が結構多いということだ。それも大抵は「徒競走」などのスポーツ競技を持ち出す。今回のメルマガでの小泉も、冒頭でオリンピックについて述べることで、それを暗に示そうとしていると私は見ている。
確かに、小学校の徒競走で順位をつけないといったことは馬鹿げていると私は思う。なぜなら、それこそ「多様性」の問題として「多様な価値を認めるように教育する教材」として使えばよいからだ。
徒競走で遅くてもスケートが下手でも、
そのことで生活自体(その人の生存)が脅かされる可能性はほとんどない。確かに劣等感を感じることはあるかもしれないが、別のことで自信を回復する道は十分にある。一つのことができないからといって全部ダメという教育をしない限りは何の問題もない。
結局、「格差」の何がダメなのかと言えば、私見では原理的には
「他者の存在を消去する」ことに繋がるということに尽きる。
主に「格差」のうちでも「所得(と資産)の格差」や「就業機会の不平等」に対して私は反対するのだが、それは、これらが「格差」の下層に属する人々の生活から
多くの選択肢を奪い、最終的には生存まで脅かす方向に向かっているという認識があるからである。つまり、
富む者が出ること自体がダメなのではなく、貧しいものを切り捨てるやり方になっていることがダメなのである。
(なお、当然、選択の自由を奪われるかどうかということは、単に「お金の問題」でなく、精神的な問題(幸福感など)にも絡んでいる。)
実際、小泉政権の政策はそういう方向を向いたものばかりが目立っているのだ。
基本的な方向性を見ても「地方にできることは地方に 民間でできることは民間に」であって、これは中央政府にナショナルミニマムの保障を放棄させようとしているのである。(省庁が小泉らに抵抗する理由の一つはこうした点にある。このことは滅多に報道されずに「抵抗」していることだけが言われる。)
三位一体改革の名で行われてきたことや、行おうとしてきたことの多くはそうしたものだったし、郵政民営化にしても地方の不便な地域に住んでいる人がますます不便になるものだと言える。
また、あまり政策としては目立っていないが、小泉政権になってから公共事業が大都市の都心に集中的に投下されていることに気づかれただろうか?政令指定都市クラスの大都市の中心地(駅前)は、非常にきれいに整備された。東京もヒルズ族が通う六本木ヒルズなどがそれを象徴的に示している。小泉が首相になって1年後、土建業者に勤めている友人たちが何人も東京に仕事で長期出張していった。
そして、景気が回復してきているといわれるのは都市部が中心で、私が住む北海道などは「景気回復?何のこと?」という感じである。(もちろん、景気回復は小泉の政策のお陰などではない。細かいことは今は書かないが国際的な経済環境が第一の要因である。)
再配分による「弱者救済」を拒むことが近年の政策の一貫した流れなのである。この流れを止めない限り、不平等化による一部の層の貧困化は加速するであろう。
なお、「悪平等」への嫌悪感は、基本的に
「平等にすると競争が起きず、創意工夫が生まれない」という類の迷信と一体である。
この点に関しては
高橋伸夫『虚妄の成果主義』を紹介するだけにしておく。ポイントを一言で言えば、
「会社を辞めたいと思うかどうか」と「仕事で能力を発揮しようと思うかどうか」は別のことであり、
給与や作業条件は前者を決める要因にすぎないのである。創意工夫や動機づけは、収入・報酬とは別なところからやってくるのだ。
最後に、強いて、近年における「所得格差の縮小要因」を挙げるならば、
給与水準のフラット化であろう。これは上を頭打ちにすることで相対的に平等化するが、結局、悪いほうに合わせるだけのことである。そして、こうした動きこそが、皮肉にも
「不平等感」を増幅しているのである。
(これについては「不平等感」についての以前の記事を参照されたい。)
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「所得の平等」と「経済競争力」
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「格差」について、もう一言
『不平等社会日本』

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