さすがに疲れてきたが、ラストスパートである。
巷に流通している言説に着目して、それらが「格差感」「不平等感」を増幅させる装置として働いていることを指摘しておきたい。
【1】階層を意識させることが現状認識と結びついて不平等感を増幅させること。
「勝ち組」「負け組」というワンセットの言葉や
「セレブ」「ヒルズ族」などの言葉を使うこと、さらには
「格差」や「不平等」を肯定的に語ること自体が、
「格差感」「不平等感」を増幅する面があるということである。
「勝ち組」「負け組」なる言葉を使うことは、そうした階層の人間が実際にいるということを想定させる。本当にそれに該当する人間がどれだけいるかは別として、そうした社会層があると想定させてしまうのである。
そして、これらの言葉が流通すればするほど、その言葉が言い表していると想定されるもの(指示対象)の現実味は強く感じられるようになる。これらの言葉に反発を感じる人は、恐らくこのことを漠然とではあっても何某か感じ取っているのではなかろうか。
こうして「勝ち組」「負け組」があるということが既成事実化されていくほど、人々は上層か下層かを意識する機会が多くなる。その都度、前回のべた「次第にネガティブ(不平等)な状態に向かっているときには、現在の状態の不平等や格差は割り増しされて感じられる」という原理が働く。すなわち、現在の日本の状況下では、
これらの言葉によって階層を意識する度に、不平等感が少しずつ無意識的に増幅されていくのである。
【2】本人の実力か?
また、「勝ち組」「負け組」という言葉が持つもう一つの問題は、
ある人が自分自身の実力で高い地位や所得を勝ち取ったり、勝ち取れなかったりしたというイメージを、話し手や聞き手に植えつけてしまうことにある。
実際には、既に『不平等社会日本』から引いてきたように、高い地位につけるかどうかは本人の実力というよりも、本人の出自によって可能性に相当大きな開きがあるのが現状である。
上級ホワイトカラー(課長職以上)になれる機会が約8倍違うというのはそれを典型的によく示している。もちろん、自営業についても同じ傾向がある。
逆に言えば、こうした
「勝ち組」といわれるような人々が高い地位や所得を得ているのは、本人の実力によるとは言えないということである。そして、さらに
問題なのは本人たちがそのことに自覚を欠いたまま「能力主義」や「成果主義」を声高に叫ぶことである。(実際、こうした傾向が高いことが『不平等社会日本』で統計的に示されている。)
完全に機会の平等が担保されているならば、そのような主張も妥当なものと認めることもできないことはない。しかし、
自分が実力で得た地位でもないのに、既に有利な立場に立っている者が、弱者切捨てという意図を持ってこれらのことを叫ぶ。日本の政治家はその典型である。(日本の政治家に二世三世が多いことは周知の事実である。これも階層の再生産がよくわかる事例である。)
つまり、
「勝ち組」なる人々がいるとしても、彼らは本人の実力だけで勝ち上がったような者ではない。この事実を覆い隠す点でこの言葉は不適切である。
【3】機会は平等?
また、「勝ち組」「負け組」という言葉は平等や格差の問題を考える際に、
「結果の平等」を軽視し「機会の平等」を強調するバイアスがかかりやすい言葉であることは認識しておくべきだろう。
私としては、社会を構想する際に、
すべての人が最低限の生活水準を確保されることを至上命題とするべきだと考えており、「
機会の平等」はその次に来ると考える。そうした立場からすると、あまりに「機会の平等」の方向にばかり言説が引きずられていくことは好ましくないと考える。
また、非常に見えにくいものであり、すぐに知ることもできないものである
「機会の平等」は、常に「結果の相対的平等」によって補完され続けなければならないとも考えている。所得や資産を考えれば、「持てる者」と「持たざる者」には必然的に「機会の不平等」も生じてしまうであろう事は、容易に予想できよう。つまり、
「機会の平等」を目指すためにも「結果の平等」の方向に社会が進むことが必要なのである。
なお、逆に「機会が平等」であっても「結果が平等」になるとは限らないため、結果が不平等になれば機会の不平等は時間とともに広がっていくであろう。そのため
「機会の平等さえ確保されていれば格差があっても良い」とは言えない。格差が広がれば広がるほど、
下層の人々が最低限の水準を満たす可能性が低くなるからである。

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