さて、そろそろ本題に入ることにしよう。
(以下では主にお金から見た側面について議論するので、その際には「民」は「私企業」特に「大企業」を意味することが多いと思われるので、概ねそのようなものと考えて話しを進めることにする。一応、先の議論を踏まえて注記しておく。)
「官から民へ」と人が言うとき、大抵の場合、公の仕事を「官」ができないため、あるいはやるべきでないために「民」がやる方がよい、という主張をしているのであろう。
このことが語られる背景には財政赤字の問題があるため、財政面から見てみる。財政学の教科書には行政は量出制入、つまり、まず支出があってそれに見合った収入を調達するのが原則だと書かれている。それに対して私企業の場合は量入制出、すなわち、まず収入(売上)があって、それに見合った支出(事業)を行うのだとされる。
「官から民へ」と言う人はこの原則を変えるべきだと考えていることが多いはずである。つまり、行政もこれからは歳入に見合った歳出(よく「身の丈に合った」などと表現される)を行うべきだ、行わなければならない、というわけである。
そのときにほとんど決まって強調されるのは「現状の厳しさ」であり、特に「公務員には身分保障などの既得権があるが『民間』の現状はもっと厳しい」ということである。これは「公務員」に対しては説得ないし譲歩を引き出すためのフレーズとなるだろうし、「公務員」以外の人びとに対しては、彼らの多くが現状の社会に不満を持っているために(この「公務員より『民間』は厳しい」という言説が正しいかどうかは別にして)共感を呼ぶ。
しかし、それが果たして「官から民へ」というフレーズが示す政策を正当化するのだろうか?私にはそうは思えない。
「官から民へ」という政策がよいものだと考えている人は、次の疑問に答えられるだろうか?
(1)
「官」と「民」の違いは何か?
問われる前に彼らが抱いている観念は「身分保障の程度」であったり「効率性の高低」であったりするだろう。この問いはまだ漠然としているところがある。
(2)従って、もう少し具体的に範囲を限定して、
「官」と「民」で財政の原則が異なる(少なくとも異なっているとされていた)理由は何なのだろうか?と問うことにしよう。
(2A)そして、
もしこれらの原則はかつては異なっていたが今では「民」と同じものに変えてよくなった(変えるべきだということになった)のだとすれば、その理由は何だろうか?
これらの問いに明確に答えるだけでなく、その上で、その答えと「官から民へ」を是とする考え方とを照合してもなお、「官から民へ」という考えの妥当性を維持できるだろうか?
私見では大まかに言って99.99%以上の確率でそうすることができないと考えている。(少なくとも、新自由主義的に考える人10000人に聞いても、誰も答えてくれないのではないかと考えている。)
ここまで言えるのは、この問いに仮に答えても、さらに問い詰めるべき問題があるからでもあるが、それは措くことにしよう。
代わりに、私見によるこの問いへの回答を次回、できるだけ手短に書くことにする。
(つづく)

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