「可決か否決かどっちかしかない」
「俺は総理大臣だ」
「俺の信念だ」
「殺されてもいい」
「俺は非情なんだ」
この5つのフレーズが小泉首相のものとして7日時点のニュースでよく出てきていたものである。
「可決か否決かどっちかしかない」というのは、
硬直的なだけで効果的でない政治をやってきた小泉自身をよく表している言葉である。
例えば、靖国参拝を見ても同じパターンなのである。靖国参拝で周辺諸国から非難されながら、しっかりエネルギー問題などでは(あまり表面に出てこないところで)中国にやられている、というのと同じである。
(ここで言っているのは日本海に埋蔵されているもののような象徴的なレベルの話ではなく、中央アジアからのパイプラインのようなより実質的なレベルの話である。)
「俺は総理大臣」なのだそうだが、総理大臣とは何でも自分の思うとおりのことを決められる人間ではない。そのような人間のことを
専制君主ないし
独裁者というのである。
郵政民営化は「俺の信念」なのだそうだ。信念を持つこと自体は大いに結構。憲法でも信条の自由は保障されている。しかし、この件に関しては
、「俺の信念」を行動に移したときに「何らかの望ましい結果」が得られなければ意味がないはずである。それはたとえ
「殺されてもいい」などと大げさなレトリックを使って、意思の固さを伝えようとも、同じである。望ましい結果、少なくとも、首相たる者が望むべき結果、これが出てくる政策でなければ採用すべきではないのである。
果たして小泉の信念を実現することは日本に住む人々にとって
(それだけで考えていてはダメなのだが、差し当たり、国民国家は事実上の政治的意思決定の単位となっているので、単純化のために「日本に住む人々」ということにしておく。)何らかの利益になるのだろうか?大多数の人にとっては否定的であろう。
要するに、小泉の考えは
素朴で漠然とした新自由主義の観念にそって考えているだけだからである。この類の考えによれば、
あらゆる分野で規制を緩和し、「官」の関与を減らし、「小さな政府」を実現することによって、「自由競争」が活性化し、経済的に好ましい状態になるのだと言われる。
これはキリストが再臨するのと同じくらい、ありそうもないことである。
何らかの「規制」を緩和することで、経済主体(企業等)はよりいっそう利益が上がる部分に集中することができるようになると想像される。この図式では、このようにして企業はいっそうの利益を上げるようになると想定されている。しかし、同時にそれは「利益にならないことはしなくなるし、しなくてもよい」ということである。
日本の経済活動のセンターとなっているのは人口が集中している大都市である。大半の企業は「田舎」だけに進出し、大都市から撤退するという選択肢は存在しないが、逆の選択肢(都市には進出するが「田舎」からは撤退する)は存在する、という非対称的な選択が構造化される。
要するに、「規制」というのはこのような非対称性(これが結果的に「不平等」という現象になるのだが)を緩和しようとするものであることが多いのだが、それをなくそうというのである。
そして、競争する企業(経済主体)は、強いものが生き残り、弱いものは淘汰されると想定される。確かにそうだろう。しかし、この図式ではほとんど常に忘れ去られている(意図的に見ないようにされている)ことがある。それは、
「敗者(廃業した企業や失業者)」は「弱い競争者、弱い経済主体」として活動していたときよりも、さらに「弱い」あるいは「社会の諸活動に貢献できない」立場になる、という当然の事実である。
素朴な新自由主義者は官から民へ、規制緩和によって「効率的な」社会が実現されるとしばしば言う。それになぞらえて言えば、
彼らの政策は「もっとも効率の悪い人々」を意図的に作り出す政策なのである。
もちろん、「勝者」は一時的に利益を得る。彼らにとってはある意味では望ましい政策かもしれない。しかし、次の点も素朴な新自由主義者には見落とされるのだが、
「勝者」――経済的に勝利した「強くて効率的な企業」――は、何らかの財やサービスを売らなければ生き残れないのだが、失業者や倒産した会社を増やして(貧しい人を増やして)一体、誰にものを売るというのか?
「外国」という選択肢は存在するが、それは政治的な決定権が及ばないところに自らの経済活動を依存させることになり、不安定で、コントロールがより難しいものとなることを意味する。
こうして次第にその社会および会社は活力を失っていき、衰退を早めていくことになるのである。
かなり単純化したが
(金融の話などを織り交ぜると複雑になるので省略した)、要するに、あらゆる分野について、似たような図式が成り立つのであり、そう考えてくると
「素朴な新自由主義」が成り立つ余地はほとんどない。
もちろん、失業者の吸収先がある場合は違った帰結になるが、吸収先がある場合というのは、要するに、
供給不足(需要過剰)の分野が大量に存在し、かつ、それらが誰もが代替可能であるような(非熟練の)仕事であるような場合以外にはないのではないか?
社会がそんな都合よくできているのならば、誰も苦労はしないだろう。新自由主義者はそうした現実を見ようとしない。
高みに立っている自分には無縁の世界だと考えているからである。
そして、このスタンスを表しているのが小泉の言っている
「俺は非情なんだ」という言葉である。そもそも、
内閣総辞職もできないで衆院を解散しているような保身屋が、よくも恥ずかしくもなく、そんなことが言えたものだ。
「殺されてもいい」とまで言うくらいなら、参院で大差で否決されたことで首相(政治家)としては死ぬ(終わりにする)べきだ。(人間としては生きていても良い。自殺しろと言っているわけではなく、政治家をやめろと言っているだけ。)
ちなみに、
民主党の岡田代表がテレビでしゃべっているのを聞いたが、彼の考えと小泉の考えには、考え方という点でなんらの違いも見出せない。民主党が政権を握るのは小泉がそのままとどまるのとそう違わない危険がある。小泉が勝ってもいけないし、民主党をあまり勝たせてもいけない、というのが今回の選挙の微妙なところであろう。
「郵政反対の自民党議員と社民および共産」という勢力が手を結ばず、「その他の自民党」と「民主党」を十分にけん制できる程度の勢力を持つことで、権力のバランスを保つこと、そして、誰も過半数を取らないこと、これが今回の選挙では一応の望ましい結論ということなのではないだろうか?

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