2009年7月の写真。稲葉地配水塔が配水塔として機能したのは、1937年から1944年までの7年ほどの間で、その後は新しく完成した大治浄水場から配水されるようになって稲葉地配水塔は無用の長物と化し、などといった内容の記述が web 上のあちこちに見られる。それならば、大治浄水場は1944年から浄水場として機能していたはずである。しかるに、
名古屋市上下水道局のサイト 内にある
大治浄水場を紹介するページ にはこう記載されている。
昭和14年6月に第5期拡張事業として着工されました。しかし、戦争激化のため、工事の中断・延期などがあり、昭和21年3月、 半施設が完成し、通水を開始しました。
昭和21年といえば1946年である。また、“大治浄水場通水60周年記念イベント”が開催されたのは、2007年のことである。なんだか“昭和史の闇”みたいな話だが、このあたりのタイムラグはどう説明すればいいのか。ひょっとしたらこういうことかもしれない。来たるべき米軍の空爆の目標になるのもかなわんので、1944年に稲葉地配水塔は用途廃止ということに表面上はしておいて、実はその後もしばらくは闇で配水を続けていた。お役所が闇水をあつかうというのもいかがなものかと思われるが、敵をあざむくためならなんでもアリである(これくらいのことにあざむかれるような米軍だったとはとても思われないのではあるが)。あるいは、実は1944年には大治浄水場の施設の一部は完成していて、それまで稲葉地配水塔から配水していたエリアに大治から配水するようになったのだが、来たるべき米軍の空爆の目標になるのもかなわんので大治浄水場は未完成ということにしておいた、ということも考えられる。しかし戦後60年以上が経過して、いまさら当時の米軍をあざむくための虚偽の情報を web 上に置いておくこともないだろうし、そういった情報を純真なブロガーのみなさんがしたり顔で引き写して、エラぶってみせるようなことになったら気の毒ではないか。というわけであるから、この終戦をはさんだ2年ほどのタイムラグについては、現時点ではよくわからないのである、ということにしておく。