2005年10月の写真。写真は澁谷町水道の第一配水塔に設置されている銘版である。右からの横書きで、“鑑如冽清”と記されている。その左側には、右上からの縦書きで、“大正十一年冬 内務大臣水野錬太郎題”とある。末尾の“題”は、動詞で“しるす”の意、なんてオタクがえらそうなことをいってはいけないヨ。エ〜、そして第二配水塔のほうには“盡不々滾”という銘版が設置してある。写真は
こちら にある。“盡”の字は常用漢字表では“尽”になってしまったのであまりえらそうではない。さてこれらの銘版の読み方であるが、調査の結果、“鑑如冽清”は、“せいれつかがみのごとし”、そして“盡不々滾”は、“こんこんとしてつきず”と読む、というのが通説になっているようである。“滾々不盡”(いきなり左からの横書きになったがメンドくさいのでこれからは左から書くのだ)の読みのほうはそれでいいと思うが、“清冽如鑑”を“せいれつかがみのごとし”とは読みたくないぞ。その根拠をこれからダラダラと書く。
まず“清冽如鑑”と“滾々不盡”の両者は対(つい)になっている(そんなことは常識であるが常識のないヒトも読むブログであるから説明がくどくなる)。そして、いずれの句にも主語がない。この二句に共通する主語はいわなくてもわかっているからだ。記されていない主語は、“この澁谷町水道の水”ということになろうか。もちろん“この配水塔の水”としてもよい。
主語を補って意味を考えると、“この澁谷町水道の水は、鏡のように清冽であり、滾滾とわき出て尽きることがない”ということになろう。この二句は対になっているのだから、続けて読んでいいのである。
“清冽”は、大修館の“大漢和辞典”の語釈に従えば、“水が澄んで冷たいこと”である。大漢和に引かれたこの語の用例“水尤清冽”(柳宗元“至小丘西小石潭記”)は、“水尤(もつと)も清冽なり”と訓読するのであろう。この場合“清冽なり”はナリ活用の形容動詞の終止形であって、体言の“清冽”に断定の助動詞“なり”が送られているわけではない。“清冽”はニホンではふつう形容動詞で読むことになっている。
さて、もう一方の“滾々不盡”の“滾々”だが、これは大漢和によれば“水が盛に流れるさま”であるから、タリ活用の形容動詞で読んで、終止形は“滾々たり”となるのである。“滾々と”はその連用形だ。
“せいれつかがみのごとし”のどこが気にくわないかというと、漢文訓読の習慣に従えば、この読み方だと“清冽”が主語としてあつかわれるおそれがあるからである。そうすると“清冽が鏡のようだ”なんていう意味に取られかねない。片割れの“滾々”を形容動詞で活用させて読んでいるのだから、“清冽”も活用させてほしい。この場合“清冽”が“……のごとし”に続くので、連体形活用語尾のあとに“こと”を送って、“清冽なること”と読んでおけば問題はない。
というわけでアタシのワガママな訓読だと、“清冽なること鑑のごとし”ということになるのであるが、さらにワガママをいうと、“清冽如鑑”と“滾々不盡”は二句続けて読みたいのだ。第一配水塔と第二配水塔が空中の架橋でつながっているように、この二句もつながっている。そこで“ごとし”を連用形の“ごとく”に改める。そうすると、“清冽なること鑑のごとく、滾々として尽きず”ということになる。アタシはこう読みたい。
“駒沢 0008” につづく。