2005年5月の写真。
『児玉町史史料調査報告 第十八集 児玉町の近代化遺産』(児玉町教育委員会 2003年)には、戦前に建築された各地の配水塔の概要が記されている。その中に次のような記述がある。
駒沢配水塔は東日本の上水道布設に多大の貢献を残した中島鋭治氏を顧問として、主任技師に仲田聡治郎と技師吉田篤三の設計監督によるものという。野方・大谷口配水塔も中島・仲田両氏に新たに四人の技師が加わり開始された。しかし中島博士急逝のため工学士西大條覚があとを継いでいる。
また、同書の野方・大谷口配水塔の項には、次のような記述がある。
配水塔の設計調査は渋谷町水道の駒沢配水塔と同様に中島鋭治博士に委託した。しかし実施設計の時博士は急逝し、その後は工学士の西大條覚が引き継いでいる。
これらの記述の内容は、かつて
“大谷口 0033” に引いた伊東孝氏の『日本の近代化遺産』(岩波新書 2000年)の記述とほば重なる。なお、児玉町の文書の参考文献リストには、この伊東孝氏の『日本の近代化遺産』が挙げられている。
また、児玉町の文書に、
“野方・大谷口配水とは一五キロメートル余り離れて建築されている。” (“配水と”は“配水塔”の誤りか?−K.T.) とあるのは、伊東孝氏の『日本の近代化遺産』の、
“ロケット型配水塔も二つあるが、場所は離れている。ひとつは中野区江古田にあり、すぐそばには哲学堂がある。もうひとつは板橋区大谷口にある。二つの配水塔は一五、六キロも離れているが、もとは荒玉水道町村組合がつくったものだ。” という記述をふまえたものであろう。しかし両者の距離はそんなには離れていない。直線距離で2.5キロメートル程度といったところである。