2002年10月の写真。岩淵水門より隅田川に入り、浅草に下る。浅草といへば凌雲閣であるが、1923年の震災によつてその姿は失はれ、二代目凌雲閣と称せられた仁丹塔もだいぶ前に取り壊されてしまつた。21世紀の今日ではかくのごときピカピカのビルが三代目と称せられてゐるやうである。
正岡容曰く、「少年時代を浅草におくつた私の胸底には、いつも凌雲閣十二階高塔の赤煉瓦が存してゐる。(中略)東北線車窓から眺めた十二階、上野西郷銅像畔または向島堤から見渡した十二階、さては六区瓢箪池へ真逆様にその塔影を映した十二階、いづれも開明東京の美観ならぬはなく、この二百幾十尺を数へる尖塔の姿こそ、ほんたうに文明開化東京の象徴だつた。黄昏ちかく深紅の夏日が反映すると塔の玻璃窓のことごとくが燦然たる赤光を放つことも亦美しい奇観であつた。やがて宵闇に包まれつくしたこの塔の姿は宛かも涙香文学中の怪塔のやうで、かゝる折の窓々の灯のいろは一しほロマンティックに濡れかゞやいてゐた。」と。(「十二階懐古」)
この「十二階懐古」は“昭和十七春稿、昭和二十三夏改稿”とある。初稿の成つた昭和十七年は1942年であるから、凌雲閣が消失してからすでに20年近くが経過してゐるといふことになる。塔喪失者の悲嘆の念、さう簡単に消え去るものではないらしい。