2011/4/27  23:33

仮面ライダー展  仮面ライダーシリーズ

夕方、外での打ち合わせが終わり、そのまま、今日が初日の日本橋三越の「仮面ライダー展」へ。

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開催期間中、数少ない平日であることと、よくありがちな「グッズの○○は初日で速攻売り切れ」みたいなことを避けるためにも、「行くなら初日の夕方しかない!」と心に決めていたのだった。


※以下、展示内容に関するネタバレがありますので、ご注意ください。


入り口でチケットを買うと、ガンバライドカードがもらえたのはうれしいサプライズ(そんな情報、全然知らなかった)。

入るとすぐ、石ノ森章太郎先生が愛用していた絵の具やメガネの展示に続いて、原画コーナー。

描き込みの細かさに心の底から驚嘆。

たしか、石ノ森先生は1ヶ月間に描く枚数がハンパじゃなく多かったんじゃなかったっけ…そんな中でこのクオリティ…天才というものの存在を目の当たりにした瞬間だった。

原画コーナーの後に突如として現れるのが、等身大のライダーたちが居並ぶコーナー。

何人かのお客さんがケータイやデジカメで写真を撮っている。

「あれ、撮影禁止じゃなかったっけ…!?」と思ったが、すぐそばの警備員さんもまったく注意していない。

「おかしいな…」と、あたりをよ〜く見回してみると、「ライダーエリアのみ撮影OK」という表示があるのだった。

念のため、警備員さんにも確認し、あらためて「OK」のお墨付きをいただいてから、俺も安心してケータイのカメラで撮影開始。

こんなことならデジカメ(もちろん仮面ライダーのヤツ)持ってくるんだったな…。

ただ、今日は大人中心の客層で、まあまあすいていたのでゆっくり撮ることができたが、会場の規模を考えると、親子連れが押し寄せるであろうGW中はかなりキビシイかも知れないな。

男前のライダーマン。
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迫力のストロンガー。
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大好きなサイクロンジョーカー!
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次回登場予定のお方も。
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ライダーエリアが終わると、当時のおもちゃなどの展示コーナー。

そして、最後を飾るのが、そうそうたるメンバーによる「祝40周年・MY仮面ライダー」というイラスト色紙の展示コーナーだ。

その中から一部の方のお名前をご紹介(敬称略)…麻宮騎亜、石井いさみ、桜多吾作、小田扉、影丸穣也、風間やんわり、一峰大二、カラスヤサトシ、北見けんいち、里中満智子、すがやみつる、鈴木伸一、ちばてつや、寺田克也、永井豪、浜岡賢次、藤子不二雄A、ほりのぶゆき、水野英子、本秀康、安彦義和、やなせたかし、山田ゴロ、吉田戦車…,etc.

最後の最後には、ちょっとした仕掛けの写真撮影用コーナーがある。

出口はグッズコーナーに直結。

03までのオーメダルセットは大量陳列(1人当たりの購入個数に制限あり)だったし、「メダガブリュー」も普通にあった。

仮面ライダーOOO(オーズ) DXメダガブリュー
仮面ライダーOOO(オーズ) DXメダガブリュー

あ、忘れてはならないのが今回の「図録」。

展示されていたクリエイターのみなさんのイラスト色紙が収録されているので、まさに保存版。

もし自分がお大尽だったら、「保存用」と「ふだん読む用」の2冊を揃えただろうな…と思いつつも、カゴには1冊のみ投入。

そのほか、子供たちへのおみやげなども合わせ、総額約6000円の散財。

仕事帰りに、最高の気分転換となり、気持ちよく家に帰ることができた。




会場の外にあったガシャポン。「オーメダル4」も潤沢(お一人様3回までだったかな?)。
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図録とチケット、ガンバライドカード(小さくてしかもピンボケ…申し訳ありません)。
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2011/4/18  23:57

流れ者とプロパー  日常生活

おととしの6月、俺が働いていた編プロの約半分の人員(俺を含む)が、今の会社のスタートメンバーになった。

今の会社は、その編プロのメインクライアントだった会社が100%出資して、新たに設立した子会社である。

メンバー構成としては、クライアントサイドからきた人員と我々編プロからきた人員がほぼ半分ずつ。

設立当初は「グループ会社として一丸となって」とか、「それぞれの社風を尊重しつつ、新しいものを創りあげる」とか、そんな美辞麗句が踊っていたもんだった。

が、そろそろ設立2周年を迎えようというこの時期、不協和音はMAXレベルに到達している。

原因は「出身母体にもとづく待遇の格差」。

まぁ、合併やら吸収やらでできた会社にはつきものの問題だ。

現状、編プロ出身者は、本当に「社内下請け(便利屋)」としてしか扱われておらず、給与待遇も編プロ時代のまんま。

親会社の初任給よりも少ない給料で働いている30〜40代がゴロゴロしているといういびつな構造。

また、この2年弱の間、親会社からきたメンバーは4月とか10月とかいう時期になると、年功序列で順調に昇進している。

一方、編プロ出身者は誰一人として昇進していない。

親会社出身の、若く、実務経験の少ない人間が、編プロ出身のベテランにとんちんかんな指示を出し、現場がめちゃくちゃになってゆく…。

当然のごとく、人心はバラバラ。

俺の場合、自分が直接担当している仕事のことで悩むのはOKなんだけれど、「組織のあり方」とか「給与や昇進のシステム」に関することに悩まされるのは、本当に消耗する。

部署のメンバーからの突き上げ的な動きもあって、俺ひとりの「どうだっていいや」では、到底済まされない状況。

親会社の連中も「そこらへん、みなまで言わすな」と思ってるだろうね。

社会の暗黙の了解ってやつで。

あ〜、明日は雨だっていうし、行くの面倒くせぇや…(ちなみに今日は休みました)。

合併企業のモチベーション管理―組織文化の繭をどう打破するか
合併企業のモチベーション管理―組織文化の繭をどう打破するか
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2011/4/3  4:01

ぼくの好きな先生  ずいぶん前の話

録画していた金八先生スペシャル。

何日か前、ようやく見た。

見たといっても、テキトーに超早送りで。

お目当ては最後の20分間ぐらいの歴代生徒集結シーンだけだったから。

杉田かおると鶴見辰吾の第1シリーズ。

沖田浩之と直江喜一の第2シリーズ。

この2つは再放送を含め、何度も何度も見た。

クラスの他の生徒たちも、はっきり、くっきりと印象に残っている。

その生徒たちの現在の姿。

あららら…こうなりますか…(しばし絶句)。

この生徒たちは、今、ほとんどの人が40代のなかばあたりだろう。

このあたりから、「老け方」にかなりの個人差が出てくるのかもしれない。

「同窓会」というものに縁のない自分は、「きっと、同窓会に出るとこういう気持ちになるんだろうな」と思った。

社会的な地位とか、職業とかを気にせずに話ができるというのは、学生時代のクラスメート同士だけの特権なのかもしれないな。

たまにはそういう関係性の中に入ってみたい。

それと、同窓会には、できれば「先生」もいてくれるといい。

自分は転校が多かったせいで「担任」と名のつく人は人よりも多い。

その中で「恩師」とよべる先生はおふたり。

一人は小学校3年生の後半と5年生のときの担任だったO先生(男性。当時30歳前後)。

国語の時間に宮沢賢治の童話をたくさん読んでくれたことや、「差別」ということに対してものすごく厳しかったことが強く心に残っている。

時代が時代だっただけに、鉄拳制裁もあったけれど、クラスのみんなはO先生のことがとても好きだった。

小・中・高を通してみても、5年生の一年間が一番幸せだったように思う。

でも、5年生が終わって、遠くに転校した自分は、その後、先生との連絡も途絶えさせてしまい、今、O先生の消息は全くわからない。

そして、もう一人が高校1年と3年のときに担任だったY先生(男性。当時30歳そこそこ)。

スーツに白いソックスを履き、ガニマタで歩く、何ともあかぬけない姿。

70年代の思想や文学などについて熱く語ることも多かった。

校則には結構うるさくて、Y先生からチェックされ、改善命令を出されたクラスメートの不満の声もしょっちゅう聞こえてきた。

ひとめでわかるパーマをかけていた自分も、本来なら、改善命令が出されて当たり前。

なのに、Y先生は、俺には改善命令を出さなかった。

「何で月見家だけその頭でOKなんだ!? おかしくないか? 何でYは月見家にだけは何も言わないんだ!?」と、当時よく言われたものだ。

高校2年のときは、Y先生ではなく、別の先生が担任だったが、この教師と俺は絶望的に反りが合わなかった。

しょっちゅう衝突していた。

生徒に対して、あんなにあからさまに嫌悪感を示す教師がいていいのだろうか。

今でもそう思う。

そのイヤな担任教師からは、事あるごとにいびられていたのだが、あるとき、俺がその日に提出しなければならないプリントを持ってくるのを忘れたことがあって、その教師は「放課後家まで取りに帰って、今日中に提出しろ」と言うのだった。

そのプリントの内容は、別にその日に提出しなければいけない緊急のものではない。

ただ、「先週一週間、家では何をどのぐらい勉強したか」ということを記録するだけのものなのだ。

ハンコがいるとかお金がからむとか、そんなことは何もない。

学校から自宅までは、自転車を思いっきり早くこいだとしても、30分以上はかかる。

俺は「あんなプリント、いちいち取りに帰っていられるか」と思い、校内でそのプリントがどこかに余っていないか探索することにした。

他のクラスも回り、いろいろと手を尽くしたものの、結局、収穫はゼロ。

あきらめて、とぼとぼと廊下を歩いていたら、1年生のときの担任のY先生に遭遇した。

「あっ、先生。あのプリント、先生のところに余ってない?」と聞いてみた。

「あ、あれ、余ってるよ。何で? 何かに使うの?」

「いやぁ、俺、今日持ってくるの忘れたらさ、あいつ(当時の担任)に今から取りに帰れって言われてるんだよね…だからさ、どこかに余ってるやつあったら、それに書いて出しちゃおうと思ってさ…」

「うーん、まぁ、だったらいいや。あげるけど、俺があげたって言わないでね」

「やったー! ありがとう! もちろん内緒にするし、取りに帰ったフリして、これから40分ぐらいしてから出すよ。ホント、恩に着るよ」

Y先生からプリントを受けとり、テキトーに記入し、40分ぐらい時間をつぶしてから、職員室にいる担任のところに出しに行った。

「プリント持ってきました」

「ん!? やけに早いな…おまえ、本当に取りに帰ったのか」

「もちろん。取りに帰りましたよ」

「ウソつくな! どこかからプリント持ってきたんだろ!」

「はぁ!? 取りに帰ったっつってんだろ! はい、ここ置くよ。これで終わり…と」

「待て!ダメだ。これは受けとらない。お前が取りに帰るわけがない。お前は校内のどこかからこのプリントを持ってきたんだろう!」

「うるせぇな…一体何なんだよ。プリント出せっつうから出してんのに。意味わかんねぇ文句ばっかし言ってんじゃねぇよ」

ここでもう、職員室はただならぬ空気。

一触即発。

そこで我々の間に割って入ったのがY先生。

当時の俺の担任に対して、「すみません。先生、自分がプリントを渡しました」と頭を下げたのだ。

「な〜にぃ〜! アンタ、よけいなコトするんじゃないよ!」

当時の担任が顔を真っ赤にして怒る。

俺は「ちょっ…Y先生には関係ないっすから! 俺が勝手にもらっただけだから! 文句あるなら俺に言えよ!」と、しどろもどろになりつつ、虚勢を張ったが、後の祭り。

結局、そのプリントは受けとられずじまい。

その後、廊下でY先生のことを待ち、出てきたY先生に謝った。

「先生、本当にごめんなさい。俺のせいで先生に迷惑かけちゃって…」

「あぁ、そんな…別にいいよ。気にせんで。ぼくがあげたのは事実やし。しかし、月見家くんも大変やね…」

俺はそのとき、「自分に親切にしてくれた人に迷惑をかけてしまった」ということに関して深く深く反省する一方で、「大変やね」と言ってくれた心遣いに涙が出るほどのうれしさを感じていた。

俺はこのときの恩は一生忘れない。


高校を卒業してから十数年経ち、30歳を越えた頃。

ある夜、Y先生が夢に出てきた。

30過ぎの俺といっしょに飲みに行く夢だ。

目が覚めて、「あぁ…Y先生か。懐かしいな。今飲みに行ったら何て言うだろうな」なんて思いながら会社に行ったのを覚えている。

その翌日、めずらしく母親から電話があった。

「Y先生が亡くなったよ」

「えっ…」

絶句した。

ウソだろ! まだ若いのに! ちょうど昨日夢で会ったばっかりなのに…。

後日、九州にある先生のお墓にお参りに行った。

案内してくれた同級生に、先生が夢に出てきたことを話した。

同級生は「あぁ、月見家のことは気になってたんだろうね。だから、最後にようすを見に行ったんだろう。そんな気がする」と言った。

先生のお墓に缶ピールとタバコを供えながら、胸が一杯になって、同級生に返事ができなかった。

Y先生、生意気な口をきいたり、迷惑ばかりかけたりして、ごめんなさい。そして…本当にどうもありがとうございました。


以下は最近知った話。

40代の若さで病魔に冒された先生は、告知を望み、余命を知り、娘さんや周囲の人たちに膨大な遺書を遺されたとのこと。

本当に尊敬できる「ぼくの好きな先生」だ。
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