2015/8/1

3422:つまみ  

 「寿命だろう・・・そろそろ楽にしてあげた方がいいよ・・・全てには終わりがあるものさ・・・人生にも、機械にも・・・」

 どこかから声がした。その声は生きている人間の声というよりは、コンピューターにより巧みに合成された人工的な声のように感じられた。

 私と「ゆみちゃん」がほぼ同時に振り返った。誰もいない四人掛けのテーブルの向こう側、やや奥まったところにある二人掛けのテーブルに座っている初老の男性がその声の主であった。

 その男性は、私がこの店に入ってきたときには、その場所に存在していた。そして、押し黙っていた。店の中の置物か何かのようにその存在感は薄れ、そこに人間がいるという感覚はやがて失われていた。

 その感覚は私も「ゆみちゃん」も同様であった。そこから不意に発せられた言葉に、少し驚き戸惑うようにして視線をそちらに向けたのである。

 その常連の男性のことを「ゆみちゃん」は「青の人」と呼んでいた。

 「青に黒が混ざっている・・・きっと良い色ではないはず・・・」

 以前、その男性のことを話すとき、彼女の顔色は曇っていた。

 「オーラの色が見えるのは、決して良いことだけじゃない・・・悪い色を見ると、少し気分が滅入ることもある・・・」

 そう続けた。

 あまり、そのことについては詮索しなかったが、きっとその色合いは、体に深刻な病を抱え込んでしまっているか、あるいは精神的に暗い淵へ向かって落ちていく可能性が高い状態なのだろうと勝手に解釈していた。

 その男性の表情には確かに生気がなかった。表情筋は長い期間笑ったことがないかのようにその顔を柔和な形に造形することを忘れていた。

 いつも、コーヒを飲みながら手にした新聞を詳細に読んでいるようであったが、その受ける雰囲気は、新聞に刻まれた情報にはなんの価値もないが、機械的にその数多くの文字を目を通して脳に送り込むことが、今自分に出来る唯一の作業なのだ、と語っているかのようであった。 

 その男性は言葉を発したが、女主人を見るわけでもなく、カウンター席に座って振り向いた私たちの方に視線を上げるわけでもなかった。

 「そうですね・・・そうですね・・・」

 そう二度言いながら、女主人はその茶色のエアコンの右下に付いている二つのつまみをいじっていた。一つは風量で、もう一つは設定温度を調整するつまみのようであった。

 現在のエアコンは全てリモコンで操作するが、この古いエアコンには本体に調整用のつまみが付いていた。そのつまみは元々は金色であったのであろうが、現在はその色合いはくすんだクリーム色のようになっていた。

 女主人はまたカウンターの中に戻り、木でできた小さな腰かけ椅子に座った。私たちも元のとおりに向き直り、静かな会話を続けた。

 私が話す言葉を受けて、彼女は何かしら話す。そして私はそれを繋ぐ。そんなことがしばらく続けられた。

 女主人は腰かけ椅子に座ったまま、雑誌を手にしていた。「青の人」は機械的な作業を黙々とこなしていた。

 新聞から微量に発せられるインクの匂いが、その薄暗い店内にかすかに漂っているような気がした。



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