2014/12/25

3203:炎  

 喫茶店「Mimizuku」に着いたのは午後の6時過ぎであった。あたりはすっかりと夕闇に覆われていた。今年の12月は例年よりも寒い気がする。スーツの上に灰色のコートを羽織り、さらに首にはマフラーを巻き付けて、完全なる防寒態勢をひいていた。

 その古びたドアを開けると、ドアの上部に取り付けてあるこれまた年季の入ったベルが乾いた音を数回奏でる。

 その音に目覚めたかのように、急に首をもたげた女主人が「いらっしゃいませ・・・」とくぐもった声を発する。日向で居眠りをしていた猫が、何らかの邪魔が入ってその場所を移動するかのような風情で、女主人はカウンターのなかに置かれた木製の椅子から腰を上げて、コップを取り出し、その中へ冷たい水を注いだ。

 2つある4人掛けのテーブルには客はいない。奥まったところにある二人掛けのテーブルには、初老のサラリーマン風の男性が座って新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。その男性の動きは緩慢で言葉を発する気配が全くなかったので、置物か何かのような感じを受けた。

 私はカウンター席の一番奥の椅子に腰掛けた。カウンターの上には小さな紙製のクリスマスツリーがちょこんと置いてあった。紙製のおもちゃのようなツリーであるが、どういう仕掛けなのか、LEDの小さなランプが仕込んであり、それがオレンジや黄色や赤に時折光った。その紙製のクリスマスツリーの脇にはSONY CF-2580が変わらずに置いてあった。

 「ブレンド・・・お願いします。」

 女主人は、水の入ったグラスを私の前に置いて、しばらくしてから、カセットテープの入った細長い箱をそのコップの隣に置いた。

 「こんな箱がね、いっぱいあるのよ・・・そうね、20個ぐらいあるかしら・・・」

 女主人はかすかに笑いながら、つぶやくようにそう言った。そして、計量カップでコーヒー豆をすくい取り、電動式のミルでその豆を挽いた。挽かれたコーヒー豆からは心を静める芳香がかすかに漂った。

 私は、おもむろにその箱の中を覗き込んだ。十数本のカセットテープが綺麗に並んでいた。全て市販されていたミュージックテープである。

 いつも通り、ジャンルは様々である。歌謡曲からクラシック、ロックまである。その中にふと珍しいものを見つけた。

 ピンク・フロイドの「炎」である。それを手に取った。紙製のケースの中にカセットテープのケースが入っている。その紙製のケースはさすがに少しくたびれていた。紙のケースからからプラスチック製のカセットケースを取り出して開けた。

 オレンジ色のインデックスが貼られたカセットテープが見えた。そこには「炎(あなたがここにいてほしい)ピンク・フロイド」と日本語で印刷されていた。

 女主人はコーヒーポットから細い糸のようなお湯をペーパーフィルターの中に堆積した粉砕されたコーヒー豆に注いでいるところであった。音楽をかけてもいいかとことわろうかと思ったが、言葉はかけずに、CF-2580のイジェクトボタンを押した。

 すっとカセットテープを入れる蓋が開いた。そこにカセットを入れ込んで蓋を閉めた。ボリュームノブの位置を確認してから、再生ボタンを押した。

 CF-2580は息を吹き返した人のように、動きだした。テープが回る音と、女主人が注ぐ細いお湯の音とが重なり、時間を下に下に引きずり込んでいくようであった。

 「サ〜・・・」という軽めのノイズの後から、楽音が流れ込んできた。「懐かしい・・・これを聴いていたのは中学生の頃・・・12歳か13歳くらいだったはず・・・」心の中に甘酸っぱい唾液のようなものが染み出してきた。

 私のコーヒーができあがり、コーヒーカップに注がれた。そのカップはお揃いのソーサーの上に置かれ、私の前に出された。

 「おまちどうさま・・・」

 女主人の声が静かに響いたとき、私から見て左前方にある店のドアが開いて、ドアの鈴が3度ほど鳴った。その音は私が入ってきたときと同じような乾いた控えめなものであった。



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