2014/12/11

3189:EL34  

 「素な感じ・・・際立ったものはないけれど、なんだか充足している。こちらの心持ちをなだめ深めてくれるような・・・」

 そんなことを思いながら、私は白いコーヒーカップに3分の1ほど残ったコーヒーを飲んだ。もう少し冷めていた。黒く苦い液体は私の舌の上で2,3度ゆっくりと渦を描くようにして、喉を通り過ぎていった。

 「EL34は今ムラードののものが刺さっているんだけど、これをテレフンケンに替えると、また雰囲気が変わるんだよね・・・ムラードの時にはオースチン ミニ、テレフンケンに替えるとロータス ヨーロッパ シリーズ1という感じかな・・・」

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 「変えてみようか・・・?」

 「あるんですか・・・テレフンケンのEL34・・・」

 「もちのろんだよ・・・」

 PYE MOZARTのパワーアンプにはEL34が水平に設置されている。それをオーナーは手早く外し、テレフンケンのEL34に替えた。

 電源を再度ONにして、先ほど聴いた数枚のレコードを聴いてみた。最初のうちはEL34が暖まりきらないのか、音がほぐれない感じであったが、やがてエンジンオイルが滑らかに潤滑し始めたのか、音もスムースに流れ始めた。

 「やはり違いますね・・・ドライビングポジションが低くなった感じがします。路面の状況もよりダイレクトに体に伝わってきますね・・・」

 私はソファテーブルに置かれていたコーヒーカップを覗いた。その底には薄らと黒い液体の残りが僅かばかり残っていた。一旦コーヒーカップの取っ手にかけた指をほどいた。

 「ちゃんと二つのEL34の違いを出すよね・・・思わずいいこいいこしたくなる。」

 オーナーはそう言って笑った。確かにPYE MOZARTのプリアンプは手で撫でたくなるような愛らしい姿形をしている。

 ふっと頭の中で思った。「PYE MOZARTのモノラルプリメインアンプだとどんな感じなんだろう・・・ステレオで聴く場合には2台必要ということは、この愛らしい機器が2台双子のように並ぶのか・・・見てみたいものである。見てみるとついつい手元に置きたくなるかもしれないな・・・レコードプレーヤーが真ん中にありその両脇を双子のMOZARTが並ぶ・・・その風景は、なんだか瀟洒の極みのような・・・」

2014/12/10

3188:BC-U  

 PYE MOZARTは、とてもコンパクトな形状がいかにも英国という雰囲気を醸している。セパレート・アンプの構成を持ってはいるけれど実質的には一体として使用することを前提としているようである。パワーアンプはEL34のシングル。出力は10W+10W。スピーカーのインピーダンスは4,8,15Ωの3つから選べる。

 同じMOZARTという名称でもモノラルのプリメインアンプもある。そちらPYE HF10という型番が与えられている。モノラルのプリメインアンプの方が先に出て、後にセパレート型のステレオ・バージョンが出た。このHF10もEL34のシングルである。出力は10W。ステレオで聴きたい場合は2台必要になる。

 「HF10は今イギリスの友人に頼んで良いものを探して貰ているんだ・・・見つかって入ってきたら、また聴かせるよ・・・このセパレートはもう買い手が決まっているんだけど、しばらくは店に置いておけるんだ・・・出力が小さいから、高能率のスピーカーでないと辛いだろうね・・・」

 オーナーはいたわるような優しい手つきでセレクターやボリュームを操作した。レコードプレーヤーはROKSAN XERXES10。アームはSME 3009R。カートリッジはOrtofon MC20である。

 Spendor BC-Uは専用のスタンドにセッティングされている。他の2組のスピーカー(TANNOY VLZとCorner LANCASTER)は向かい合わせにされて、リスニングポイントの背後の壁に片付けられている。同じ部屋に2組以上のスピーカーがセッティングされていることをオーナーはとても嫌う。

 「できれば部屋の外に音を出さないスピーカーは出したいのだけど、無理な場合には最低限向かい合わせにしてリスニングポイントよりも後ろの壁に接するように仕舞っておく必要があるんだ・・・ショップで2組、3組のスピーカーをセッティングして、スピーカーケーブルをつなぎ替えて切り替えたりしているところがあるけれど、あれではだめですね・・・見た目も悪いしね・・・」

 リスニングポイントから見て正面にはSpendor BC-Uのみが見える。右側に設置されているラックにはROKSAN XERXES 10、PYE MOZARTのほかにQUAD 33と303のペア。LEAK Point One StereoとTL-12Plusが置かれていた。

 オーナーはレコードをセットした。Susanne Lautenbacherのヘンデル ヴァイオリンソナタ第6番である。ゆっくりとMC20の針先は盤面をなぞっていく。滑らかで清らかなメロディーが流れ始めた。

 BC-Uはほとんど内振りがつけられていない。背後の壁からは1mほど離されている。スピーカー間の間隔は2m半ほどであろうか。ゆったりとした空間に解き放たれるようにBC-Uはセッティングされていた。

 穏やかな音である・・・色合いは明るいというよりくすんだ茶色の色合い。暗く重い音ではないが、華やか晴れやかという印象とは違う。

2014/12/9

3187:Mozart  

 「お先に・・・」私はカウンター席に座っていた女性に軽く挨拶して店の外に出た。時計の針は5時半を回っていた。辺りはすっかりと夕暮れて暗くなっていた。
 
 店の出入り口から反対側にあるこのビルの階段の方へ向かった。そして、半分上ると90度向きを変える踊り場が繰り返される階段を上った。

 2階には「光通商」という名前の会社が入っている。なんだが怪しいものでも輸入しているのではないか、という気になってくるような雰囲気が漂っている。

 3階はずっと空いている。ただし「テナント募集」といったたぐいの表示はどこにもない。4階にようやくたどり着いた。

 オーディオショップ・グレンの扉をノックして、反応を待った。「どうぞ・・・」をいうドアの内部から聞こえててくる声を確認してからそのドアを開けた。

 店内にはコーヒーの良い香りがしていた。いつものようにリスニングポイントに据えられている黒い革製の3人掛けソファに座った。ソファの前には濃い茶色のソファーテーブルがある。

 リスニングポイントから見て右手にあるラックにはいくつかの機器が並んでいた。その中にキラキラと輝く小さな機器が目についた。

 ボチュームなどのノブがとても洒落た造形となっている。右側から左側に向かって徐々にノブが小さくなって並んでいる。その佇まいは本当に可愛い。
 
 「これがPYE MOZARTか・・・実にお洒落だな・・・まさにイギリスの造形美を体現している感じだ・・・」

 PYE MOZARTは小さなプリアンプと小さなステレオパワーアンプの2体で構成されている。プリアンプは実に瀟洒なデザインで彩られている。私の目からすると、最も美しいプリアンプの称号を贈りたい、と思わせるものである。

 そしてそれと対になるパワーアンプは意匠と呼べるようなものはまとっていない。剥き出しな感じである。プリアンプの後ろに隠れてセットすることを前提として開発されているのであろうか・・・完全に裏方といった風情である。

 スピーカーはSpendor BC-Uがセッティングされていた。専用のスティール製のスタンドに乗せられている。

 「可愛いでしょう・・・このプリアンプ。MOZARTという名前がピッタリ・・・」オーナーは白いカップに入れたコーヒーをテーブルに置きながら言った。コーヒーカップからは白い湯気がほのかに立ち上っていた。

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2014/12/8

3186:再始動  

 再始動(厳密には再々始動というべきかもしれないが・・・)の時には、ゆったりと始めるべきであると、思っていた。

 エンジンを始動させてすぐにアクセルを強く踏むのではなく、ゆったりとじわっと少し踏むのである。エンジン回転は低めにコントルールしてそれほどの負荷をかけない。スムースな回転を心がける。そうやって始めるべき・・・そう心に決めていた。

 財布から白いカードを取り出してそれを入口の脇にあるセンサーにかざした。すると「カチッ!」と音がして施錠が解除される。

 ドアを開けて、中に入り、更衣室へ向かった。着替えを終えると、自販機でスポーツドリンクを1本購入する。スポーツドリンクとタオルとスマホを手にエアロバイクに・・・

 座面の高さを調整してまたがる。クイックスタートボタンを押してから、コースを選択する。マニュアルコースを選択して、ペダルの重さを選ぶ。ペダルの重さは「1〜25」まで選択できる。数字が大きいほど重くなる。「17」に設定して、漕ぎ始める。

 3週間もの長きにわたって満喫した素晴らしきOFFは終わった。途中、地獄の淵を覗き見るような貴重な体験もできたこの3週間の後、体は相当になまってしまった。

 このなまりを削ぎ落とすにはかなりの時間が必要である。今日はその第一歩を踏み出すことが出来た。

 しかし、いきなり無理は禁物である。中負荷で時間もいつもよりも短めの設定でトレーニングを行うことに決めていた。

 スマホでYoutubeの画像を見ながらペダルを漕ぎつづけた。ロードバクの室内トレーニング用に編集された画像を選択して、その美しい画像と気分を盛り上げるトランスミュージックを堪能しながら心臓を動かした。

 心拍数は「140〜145」ほどに抑える。15分ほどすると汗が流れ落ち始める。負荷はそれほどではなくても汗の量は結構なものである。

 時間は40分と短め。次のトレーニングでは45分、その次は50分・・・そして、いつもの60分まで伸ばす。負荷も徐々に上げていく。

 しかし、なまった体というものは本当に嫌なものである。さすがにお腹の肉がたるむまでひどいことにはなってはいないが、体全体の締りが緩んでいる感覚を少しでも早く脱したい。

 明日もAnytime Fitnessに行こう。時間は45分に伸ばす。負荷は変わらず軽めの負荷で・・・無理は禁物である。

2014/12/7

3185:KT61  

 LEAK TL-10の出力管はKT61である。KT66やKT88のように有名な真空管ではない。1950年代に製造されたもので、かなりマイナーな真空管である。

 そのため、日本国内で見つけるのは困難を極める。e-bayをチェックしていると見かけることがあるが、それほど良いコンディションのものが見つかる可能性は低かった。

 しかし、まれに良い状態のものが見いだせることもある。2週間ほど前に見つけたのが「GEC製KT61 4本セット」・・・4本セット自体が珍しい。真空管に印字されたプリント文字はかなり剥げてしまっているが、状態は悪くなさそうである。値段も4本セットで20,000円程と比較的手ごろであった。

 そのGEC製KT61 4本セットが金曜日に届いていた。それを今日試してみることにした。現在装着されているKT61でベートーベンの弦楽四重奏曲をかける。しばし聴きこんだのちに、アンプの電源を一旦落としてKT61を取り外す。そして新たに届いたGEC製のKT61に取り換えた。

 そして電源を入れる。KT61をはじめとするTL-10の上に綺麗に並んだ真空管がオレンジ色にほのかに輝き始めた。

 再度先ほど聴いたレコードの上にSPUの針先をゆっくりと降ろした。KT61はマイナーな真空管であり、ある特定の時代にのみ製造されたものと推定される。なので製造された時代にそれほどの開きはないものと思われる。

 そうではあるが、ずいぶんと印象が変わる。例えるならカートリッジを変えたぐらいの変化が感じられる・・・不思議な世界である。GEC製のKT61のほうが音が太い。弦楽四重奏であればチェロやビオラの存在感がアップする。

 「こっちのほうが良い感じである・・・こちらをレギュラーにするか・・・」

 今まで使っていたほうは箱にしまってストック・・・真空管アンプを使うマニアにはこういったストックだけで膨大なコレクションを形成している人々もいる。

 真空管によって音が変わるということだけでなく、真空管自体が持つ「物」としての存在感がコレクター心理をくすぐるのかもしれない。

 その独特の形状や内蔵される構造体がガラス越しに見えるところなど、オブジェ的な造形美が満載なのである。

 私はコレクター的性質が全くないので、それぞれ予備用としてストックを1セットのみとってあるに過ぎない。

 「出力管がKT61でよかったのかも・・・人気の高いKT66やKT88であれば、中古市場ですぐに見つけることができるが、人気があるのでその金額は相当に高い。古い時代に製造された希少価値の高いものはおっととのけぞりがちになる出費を伴ったりする。しかし、真空管により音が変わることを知ってしまうと抑制力は弱まる・・・その結果、出費もストックも増え続けるという結果になる可能性もあった・・・」

 そんなことを思いながら、GEC製のKT61に換装したLEAK TL-10で数枚のLPを聴いた。「時折、e-bayをチェックしよう・・・」頭の片隅ではそう思いながら・・・

2014/12/6

3185:罠  

 「これはきっと罠に違いない・・・巧妙に仕掛けられれた罠に・・・」 私はそう思った。

 シチュエーションがあまりも似ている。風邪の症状は9割がた収まった。体全体をしつこいくらいに覆っていた倦怠感はすっと薄らいでいき、鼻水もくしゃみも出ない。もともと熱は平熱のままである。喉に少し違和感を覚えるのと、時折咳き込むのが、風邪の残り香のように残留しているにすぎない。

 この状況は先週の土曜日と全く同じである。先週の土曜日にはその回復具合に気を良くして、2週間もの間足踏みを強要されたことに対する怒りの感情も作用し、完全に風邪を追い払ったとはいえない状況ではあったが、翌日の日曜日のロングライドへの参加を決心し、ジムでのトレーニングを再開した。

 しかし、日曜日のロングライドでは試練の連続にみまわれた。「苦難、汝を玉にする・・・」という格言をもすっかり忘れ去るほどの激しい苦難を背負って走る羽目に陥った。

 そればかりか、翌日の月曜日からは、嫌悪感を催すような様々な風邪の症状が矢継ぎばやに体に戻ってきたのであった。

 「元の黙阿弥」と相成ったのである。それからの日々を力なくめくるようにやり過ごしてきた。そしてようやく土曜日になって明かりが差し込んできた。

 まだ喉に違和感はある、時折咳もでる。しかし、体はずいぶんと軽くなった。3週間もの長き間苦しめられてきた風邪によって、忘れかけていた健康な体の感覚が甦り始めている。

 右手の中指の第二関節と人差し指の第一関節は「健康な感覚」に触れている。それをこちらに引き寄せようとするが、完全に掴んでいるわけではないので、微妙な距離感を保っている。

 この状況で先週と同じ決断をしたならば、私は巧妙にカモフラージュされた落とし穴にドスンと落ちるであろう。

 これは「罠」であると同時に「試し」に違いない。私の学習能力や忍耐力を試す一種の「テスト」のようなものに違いないのである。

 明日のロングライドには参加しない。風邪の完全なる撃退を目指す。この異様に長い期間続く風邪によりコツコツと積み上げてきた登坂能力は相当低下してしまったはずである。私としては少々不条理なものを感じないわけではない。

 しかし、風邪が完治してから再度コツコツと小石を積み上げれば、またいずれ同程度までの能力は確保できるはずである。1ケ月では無理かもしれない。2ケ月あるいは3ケ月以上かかるかもしれないが、きっと戻すことができるはずである。

2014/12/5

3184:カセットテープ  

 ベートーベンの交響曲第5番の第1楽章が終わった。私はCF-2850のストップボタンを押してカセットテープの回転を止めて、イジェクトボタンを押してカセットテープを取り出した。

 そのカセットテープをケースにそっとしまってミュージックテープが入っている細長い箱に入れた。コーヒーは飲み終えていた。そろそろ席を立とうかと思っていた瞬間であった。

 カウンターに座っていた女性が「カセットテープでまだなにか聴かれますか・・・?」と私に尋ねた。

 「あっ・・・いえ、私はもう・・・どうぞ、何か聴きたいものがあれば・・・」私は少々不意を突かれた感じでどぎまぎしながら答えた。

 すると、その女性はミュージックテープが入っている箱ではなく、自分のカバンを探った。そしてカセットテープが入っているケースを一つ取り出した。

 そのカセットケースには猫の白黒写真が印刷されていた。彼女は慣れた手つきで操作してそのカセットテープを再生した。アコースティックな雰囲気のポップミュージックが流れてきた。

 20代半ばと思われる女性の年齢からすると、カセットテープなんて過去の遺物であり、日常生活の中で使用したことはないはずである。

 不思議な感じであった。「カセットテープ・・・持っているんですか・・・?」今度は私が尋ねた。

 「ええ、最近なんですけど・・・インディーズのアーチストがカセットテープで新作を出すんですよ・・・好きなバンドもカセットテープで出すので、なんでかな・・・と思って。何本かネットやライブの時に買ったんです。それが、なんとなく気に入っちゃって・・・なんだか新鮮で・・・」

 彼女は目がくりっとしていて、どちらかというと童顔であった。化粧っ気もほとんどなく、言葉にも少し訛りがあった。

 「でも、カセットテープって不便でしょう・・・頭出しもできないし・・・音も少しこもった感じがするし・・・」

 「ああ、それはそうですね・・・でも、最初からちゃんと順番に聴くって、逆に良いのかも・・・i-Podだとついついバンバン飛ばしちゃうんですよね・・・それにあんまり耳が痛くならないんですよね・・・i-Podからイヤホンで聴いていると時々耳が痛くなってきちゃって・・・」

 「そう・・・でも、ラジカセ持ってるの?」

 「持ってなんです・・・時々この店に来て聴くんですよ・・・家が近いんで・・・そのうちに古いタイプのラジカセを買おうかと思っているんです・・・」

 「えっ・・・古いラジカセ売ってるの?」

 「ええ、専門店があるみたいですよ・・・あとはヤフオクなんかでも売ってるみたいです・・・」

 その女性はあまり物おじせずにしゃべった。相当隔たりのある世代間を偶然繋いだカセットテープであった。

 私は、コーヒー代を払い、その女性に「じゃあ・・・お先に・・・」と軽く挨拶して、店を出た。腕時計は5時半を指していた。外はすっかりと暮れて暗くなっていた。

 「なんだか優しい音がするんですよね・・・カセットテープって・・・」その若い女性が言った言葉が頭の中でころっと一回転した。

2014/12/4

3183:Mimizuku  

 Mimizukuに入った。前回と同様四つ並んだカウンター席の一番奥の席に座った。店内には四人掛けのテーブルが二つあり、少し奥まったところに二人掛けのテーブルが一つある。二人掛けのテーブルには年配の男性が座ってコーヒーを飲んでいた。

 私は前回同様オリジナルブレンドを頼んだ。女主人は薄い茶色のペパーフィルターに曳いたばかりのコーヒーを入れて、ゆっくりとその真ん中に向けてお湯を注ぎ始めた。SONY CF-2580は前回同様カウンターに置いてある。

 「おまちどうさま・・・」女主人はそう言うとコーヒーカップをテーブルに置いた。カップには黒く光るコーヒーが揺れていた。

 「また、聴いてみていいですか・・・カセットテープ・・・?」

 私はそっと女主人に話しかけた。

 「ええ、いいですよ・・・小さめの音量でね・・・」

 そういうと、細長い箱を取り出してきて、カウンターの上に置いた。その箱の中にはかって市販されていたミュージックテープが十数本入っていた。

 クラシックのテープも何本か入っていた。小澤征爾指揮ボストン交響楽団の演奏でべートーベンの交響曲第5番のテープが目についた。TELARCのカセットテープであった。

 ケースを開けてテープを取り出す。テープのレーベル面には曲名や演奏時間などが綺麗に印刷されていた。TELARCのトレードマークも印刷されていて、れっきとした商品であることを主張しているようであった。

 それをCF-2580に入れてPLAYボタンを押した。あまりにも有名なフレーズが流れ始める。高音用と低音用に区分されたトーンコーントロールを調整してみた。思った以上に音が変わる。

 第一楽章が終わる頃合いであった。店の扉が開いて新たな客が入ってきた。扉が開いた音に何気にそちらに視線を向けた。

 女性であった。若い女性であった。この店の雰囲気にはそぐわない感じであった。20代半ばであろうか・・・

 「いらっしゃい・・・」

 女主人は静かに言った。その女性はちょっとためらった風であったが、カウンター席に座った。四つ並んでいる席の一番奥に私が座っている。その一番手前の席に座ったのである。

 CF-2580はカウンター席の真ん中に置いてある。そのCF-2580を挟む形で私とその女性が座った。CF-2580からはべートーベンの交響曲第5番の第1楽章の終盤が小さめの音量で流れていた。

 そのカセットテープのケースは私のほとんど空になったコーヒーカップのすぐ脇に置かれていた。その女性は席に着く間際に、ちらっとそのケースに視線を落としたように感じられた。

2014/12/3

3182:GENESIS  

 「元の黙阿弥」・・・思わず頭の中でそんな言葉が思い浮かんだ。風邪が100%完治したわけではないのにロングライドに参加したのが悪かったのか、風邪の症状がまた表舞台に登場してきた。

 今年の風邪の菌は相当しつこいようである。薬の効果により、撃退したかのように思っていた菌は身体の奥底に一旦潜んで、その体の抵抗力が弱くなるのを覗っていたかのようである。

 喉の痛みと咳、そして体の倦怠感がまた再び覆いかぶさってきた。熱は一切出ない。仕事を休むほどの辛さではない。

 疲れやすさと集中力の持続が阻害される傾向があるが、日常生活においてそれほど大きな支障となるほどではない。仕事はいつもどおりする。すると家に帰り着くとぐったりとしている。それが続く。

 「今度は焦らずにしっかりと直そう・・・」

 そんなことを思いながら仕事を終えて家に帰り着くと、ベッドに早めに入り込む。ベッドの脇にはi-Padを置いておく。

 そして、Youtubeで中学生の頃聴いていた懐かしいプログレッシブロックのLPを選択して、小さめの音量で子守唄がわりに流す。

 中学生1年生から2年生ぐらいであったであろうか、YES、GENESIS、KING CRIMZONなどのプログレッシブロックのバンドのLPをよく聴いていた。

 そんな40年ほど前の懐かしLPはほとんどYoutubeにある。画像は動かないが、動画を見るわけでなく音を聞くだけであるので、支障はない。

 今日選択したのはGENESISの「幻惑のブロードウェイ」。ピーター・ガブリエルが在籍していたGENESISの最後のアルバムになる。

 「いや〜懐かしい・・・よく聴いたのは中二の頃だったかな・・・13歳ぐらいか・・・」

 確か2枚組で、ジャケットのデザインがそれまでのGENESISのものとはがらっと変わって、少し不気味で幻想的な写真で構成されていた。

 その印象的なメロディーを聴きながら、暖かいベッドの中に潜り込んで体を少し丸めていた。あの頃から40年近い年月が流れた。とても遠い昔であるが、その音を聴いているとあの頃に戻れるような気がした。

2014/12/2

3181:試練  

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 今日の目的地である都民の森の駐車場に着いた時には空は灰色の雲ですっかりと覆われていた。気温はかなり低い。汗で濡れた体は急速に冷やされてきた。

 ハンガーノック気味であった身体は、おにぎり一個では満足できずに、売店で売られていたおでんや団子も買って食べた。

 食料が胃に十分に補給され、体もしばしの休息で回復してきた。過酷な行軍を終え、少しばかりほっとしていた。帰りは下りがメインである。「もう、厳しい試練にさらされ続けることはないはず・・・どうにかこの体調でもやり過ごせるだろう・・・」そう思った。

 しかし、今日ばかりはそういうわけにはいかなかった。神様は思い上がりから慎重さを欠いた人間には、厳しい罰を与えることを信条としているようで、新たなる試練をしっかりと用意していた。

 寒さに追い立てられるようにして、下りの準備を始めた。ヘルメットをかぶり、サングラスをかけ、フルフィンガータイプのグローブをはめた。グローブの中は汗で濡れていた。指先がその冷たくなったグローブの内側に触れたとき、すっと背筋に寒気が走った。

 長い下りに入った。冷えた空気が強烈な勢いで体に触れてくる。腕の筋肉、脚の筋肉が急速冷却される。筋肉の一本一本の筋が強張り、固くなっていくようであった。

 下りながら、筋肉の柔軟さがどんどん失われていくのを覚えた。そして、やがて脚の筋肉には不規則な痙攣のようなものが走るようになった。

 脚の筋肉はその持ち主の意志とは関係なく、強張り、痙攣し、命令を拒否するようになってきた。そして痛みが・・・電気が走るように素早く、抜け目なく、襲うようになってきた。

 「まずい・・・太ももの筋肉が攣りそうだ・・・」そんな危惧感を抱きながら下りのカーブをいくつもやり過ごした。

 下り一辺倒のエリアを過ぎると軽めの上り返しも訪れる。その際には止めていた脚を回す。すると先ほどの電気のような痛みが容赦なく襲ってくる。

 痛みが走ると脚の回転を緩め、だましだまし走っていたが、とある上り返しの地点にきて、両足太ももの筋肉が同時に攣った。

 「脚が・・・攣りました・・・両方・・・」そう苦悶の表情で訴えて、ストップした。左足のクリートは外すことができたが、右足は痛みのため外すことができない。

 左足のみを地面に着いた状態で、両足に強烈に襲いかかる痛みに唸った。どうすることもできない。全く身動きできない。

 リーダーに右足のシューズを脱がせてもらって、どうにかロードバイクから抜け出るように降り、両足をマッサージした。時間の経過とともに攣っていた筋肉も少し落ち着きを見せ始めた。屈伸を何度かして、筋肉を伸ばした。

 少し落ち着いたところでリスタートした。筋肉の動向はまだ幾分不安定であったが、しばし下っていくとどうにか橘橋交差点までたどり着いた。

 ここを右折して武蔵五日市駅まで向かう。下り基調の緩やかな道が続く。普段であれば、上り終えた気安さも手伝って高速で飛ばすコースである。

 先ほど攣った太ももの筋肉にはまだ痛みが残っていた。その痛みは波のように大きくなったり小さくなったりを繰り返していた。

 「また来るのか・・・」そんな嫌な予感がしてきた。すると戸倉のセブンイレブンが見えてくる少し前で、また両足に鋭い痛みが走った。

 「また、攣ったみたいです・・・」脚が全く回せなくなった。急遽セブンイレブンに立ち寄って休息した。メンバーの一人が「Mag-On」という筋肉の攣りを抑えるサプリメントを持っていたので、もらって飲んだ。この「Mag-On」・・・効果てきめんであった。痛みは残ったが、脚の筋肉はもう攣ることはなかった。

 今回のロングライドは試練そのものであった。風邪が完全に治りきらないうちに見切り発車したつけは予想以上に大きなものであった。

 試練の連続ではあったが、メンバーに助けられながらどうにかこうにか全工程を走り終えることができた。メンバーには心から感謝である。

 自宅にたどり着いてORBEA ONIXをサイクルスタンドに掛け終わると、大きく息を吐いた。玄関でしばし座り込んだ。痛みが残る両足の太ももをさすった。

 サイクルシューズに目をやった。小刻みに揺れているように見えた。MAVICのサイクルシューズはもう3年半ほど履いている。すっかり汚れて傷ついていた。

 「帰ったの・・・大丈夫だった・・・風邪本当に治ったの・・・」妻の声が背後に聞こえた。「あっ・・・ただいま・・・大丈夫だったよ・・・ちゃんと走れたよ・・・」努めて明るめの声で答えた。



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