2013/10/2

2757:ホテル  

 確かに彼女は「純粋でしょう・・・」と言ったはず。彼女の右の頬は私の左の胸のあたりにある。彼女の口元は私の左の耳のすぐそばにある。聞き違いではないはず。

 「純粋・・・何に向かって言っているのであろう。Juneにかけたわけでもないであろう・・・」手繰り寄せた糸は、あるかないかわからないほどに軽いその糸自体の重みしか手には感じられなかった。

 「純粋・・・?」

 私は問いかけるような口調で言った。

 その言葉を受けて彼女は顔を斜め上に向けて、視線をこちらに向けた。その目は少しぼやっとしていた。とろみ成分が水に軽く溶いた片栗粉のようにうっすらとその光彩を覆っていた。

 「なんでもない・・・気にしないで・・・」

 彼女はうっすらとあやふやな笑顔を浮かべた。なにかしらの想念が頭の中を駆け巡り、その一部がぽろっと口からこぼれおちたのであろうか・・・無意識のうちのこぼれ出た独り言を質された人のように、彼女は少し恥ずかしげであった。

 「純粋・・・純粋ね・・・私たちの関係が純粋なわけはない。お互いに家庭のある二人がこうしてホテルの小さな一室で抱き合っているのである。これは背徳の極みであり、昭和の香りがする古びた言葉で表現するならば『不純異性交渉』であろう。」

 「では、何が純粋なのであろうか・・・」

 彼女の頭の中で巡っていたであろう想念は私の頭の中に移ってきた。

 「性的な快楽に対して純粋なのであろうか・・・それなら、分かるような気がするが・・・彼女は確かにそういった点に関しては純粋である。この小さな空間の中ではそれにだけ没頭できる。両手でかき集めるようにして、快楽を自分の懐に搔きこみ、その味わいを体の芯で感じているようだ。」

 「背徳の関係であるということも、その集中力を高める要素として作用しているのかもしれない。いけない・・・という罪悪感や後ろめたさは、何らかの化学反応により、大きな快楽の起爆剤にもなる。二人はそういった諸々のものをも利用して最大の快楽が得られるように抱き合い愛撫しあっているのであろうか・・・」

 少しの間黙っていた。そんな取りとめのない思いがさらさらと流れるように浮かんでは消えた。体の左側が暖かかった。右腕を彼女の背中にまわし、体の正面をおたがい横向きになるようにして合わせあった。

 「このホテルには何室あるのであろう・・・そして、今こうやって何人の男女が抱き合っているのであろう・・・なにかしら欠けているものを埋め合わせるかのようにして・・・」ふとこのホテルの部屋数が気になった。

 少し薄暗く設定した部屋の照明は幾つものダウンライトが担っていた。十数個あるそれらの小さなダウンライトのうち一つだけ切れていた。均等に並んだダウンライトのその切れた周囲だけが、ブラックホールのように空気を内側に吸い込んでいるように感じられた。



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