2012/10/20

2410:声  

 二人は肌を合わせた。文字どおり肌を合わせてお互いの体温を交換した。そして執拗なまでに舌を絡め合い、唾液を交換した。

 舌は体とは別の生き物のようである。その貪欲な触感要求のままに滑らかに動いた。その舌の要求に何ひとつ逆らうことのないように、私は舌を巡らせた。それに従って彼女の息遣いは乱れ始めた。

 やがて乱れた呼吸からは、彼女の「声」が漏れ始めた。普段の話し声よりも高い音域の「声」であった。もしも私に絶対音感があれば、その音域を言い当てることができるのであるが、残念ながらそういった能力は持ち合わせていない。

 文字で表記するのであれば「ア」という文字を使うべきであろう。しかし、そのなかには「ウ」の要素も混入されている。その「声」はとても耳に心地良いものであった。時折、その口元に耳を持って行きたくなった。

 彼女は官能の淵に何度か落ちた。その瞬間、お臍のあたりに緊張感が走ったかと思うと、2度、3度と強くその部分の筋肉が収縮と弛緩を繰り返した。そして、間断なく響いていた彼女の「声」は、その瞬間無音になる。

 何度目であったであろうか、彼女が官能の淵に落ち、一瞬の静寂がこの六畳の和室を支配した時、何かが聞こえた。

 それは確かに「声」であった。しかし、先ほどから楽器のように滑らかな美音を響かせていた彼女の「声」ではなかった。

 その「声」が聞こえた時、彼女の顔を見た。薄暗い照明の中、彼女は目をつむり、口を閉じていた。呼吸が乱れていた。私は彼女の口元に耳を近づけた。生暖かい息遣いが耳に収集された。

 また、新たなる「声」が響いた。大きな響きではない。むしろかすかな響きである。しかし、その「声」の在処は、私の耳元ではなかった。

 私たち二人が体を合わせあっている場所よりも上方であった。その「声」は、言葉ではなく、純粋な音としての「声」であった。

 外で激しい風が吹き、そのうねりが独特の音域の音を発生して、それが窓から入り込んでくるのであろうか・・・

 あるいは猫か何かの動物が激しい鳴き声をあげているのが漏れ聞こえてくるのであろうか・・・あるいは、隣の八畳の部屋に置いてある電気ポットが蓋の具合の不具合で蒸気を漏れ出している音が人の声のように聞こえるだけであるのであろうか・・・

 私は上を、天井方向を見るべきであろうか・・・

 その「声」はかすかではあったが、滴り落ちる雨粒のように、続いていた。

 背筋に冷たものが走った。上を向いてはいけないような気がした。そして、急に体が重くなってきた。まるで自転車で登り坂を走っているように、筋肉に重力がかかる。

 その「声」を消すために私は再び動き始めた。「寧々ちゃん」の「声」が、再度響き始めた。ある一定の音域の「声」である。血の通った暖かい声である。

 その「声」にかき消されるかのよに、もうひとつの「声」は聞こえなくなった。「聞こえない。聞こえない・・・消えてしまった・・・」心の中で繰り返した。

 動きは速く、性急になってきた。体は重かったが、それを振り払うように筋肉を動かした。二度も温泉に浸かったので、体は暖かいはずであるが、何故かしら両方の肩が妙に冷たく感じた。

 そしてその瞬間は来た。私の右耳のすぐそばでその「声」がしたのである。その「声」をどう表記すべきであろうか・・・

 私の耳には「見て・・・」と聞こえた。しかし、その「声」はノイズに埋もれた言葉のように判別がつきがたかった。しかし、確かに「見て・・・」と聞こえた。

 もしも、その声の方向へ目をやると、メデューサの瞳が光っているのであろうか・・・その瞳を目にすると石にされるという・・・いやもっとおぞましい存在が凍りつくような視線をこちらに寄こしているのであろうか・・・

 私は混乱した。混乱した頭の中で私はあるひとつの意思を貫いた。「決して見ない・・・決して・・・」しかし、その声は何度か続いた。執拗に・・・

 私はうめき声をあげて、彼女の中に果てた。それと同時にその「声」は止んだ。彼女の「声」も止んだ。彼女はその「声」の存在に全く気付いていないようであった。

 単なる「幻聴」であったのであろうか・・・私の脳内でのみ響いた「声」でしかなったのかもしれない・・・そうでなければ、彼女がその「声」の存在に全く気付いていないことが不可解である。

 もしも、目を見開き視線を上方へ向けていれば、何かが存在していたのかもしれない。得体のしれない何かが・・・しかし、それさえも私の脳内で合成されたもので、私の専有物でしかなかったのかもしれない。

 不可解な夜であった。そして不可解な「声」であった。

 翌日になっても、彼女にはそのことは話さなかった。「昨晩、何か聞こえなかった・・・」という言葉が喉まで出かかったのであるが、ぐっと堪えた。彼女を不安がらせる可能性が高かったからである。



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ