2012/3/9

2185:坂の上  

 今日は一日冷たい雨であった。気温は朝の気温のまま上がらず、10度には全く届かずじまいであった。春は近いはずであるが、今日はその歩みがピタッと止まってしまった。

 あの日も同じようであった。同じように朝から雨が降り続き、気温は低いままであった。あの日のことはほんの数日前のことである。今日は金曜日であるから、指折り数えてみると、4日前のことにすぎない。しかし、なぜかしら遠い日の出来事のような気がする・・・

 目黒駅の西口を出て、行人坂を下り、目黒雅叙園の「渡風亭」で「寧々ちゃん」と一緒に昼食をとった。そして、ひっそりと目黒エンペラーに入った。

 お風呂に一緒に入り、とりとめのない話をした。お風呂を出て、バスタオルで体をふき、ベッドに向かった。照明を落とし気味に調整し、二人は大きめのダブルベッドに横たわった。そこまでの記憶は比較的鮮明である。

 それ以降の1時間ほどの間のことについては、それなりには覚えているが、ところどころどのような経過でそうなったのか、不明なところもある。そのわずかな時間の経過について詳細に記そうとしても、「どうだったんだろう・・・確かこうだったような・・・」といった不確実性が入りこんできてしまう。なので、ゆがんだスクリーンに映った映像のように、現実と異なった形にデフォルメされているかもしれない。

 洗ったばかりのシーツは少しひやっとした感触であったが、お風呂でほてった肌には心地よかった。二人は、ベッドの上で柔らかく軽い羽毛布団にくるまるようにして、抱きあった。お互いの肌の暖かさをめいっぱい感じ取れるようにしっかりと肌を密着させた。

 私は、しばらくの間抱き合ったまま彼女の肌の感触を私の体の内部に沁みこませた。そして、右手の人差指、中指、薬指を使って、彼女の背中をそっとなぞった。

 その動きは、とてもゆっくりであった。触れるか触れないかのかすかな触感で、彼女の肌の上を滑らせたのである。その三本の指の先には何かしらのセンサーが付いていて、そのセンサーは極めて敏感であるので、かすかな接触でないと正常に機能しないかのように、その指のわずかな質量だけがその重みに加わっていた。

 抱き合っていた体勢は徐々に変化していき、当初右手の三本の指だけであったセンサーの役割には、左手の人差し指、中指、薬指が加わり、そして唇と舌も加わった。 

 彼女の呼吸は徐々に乱れ気味になり、あるポイントを超えてからは、明らかに声を発するようになった。その音は、私が勝手に想像していた音域よりも高かった。

 彼女の声が漏れ始めると、センサーの役目は、右手の指と左手の指から、舌先に重点が置かれるようになった。舌先はその触れる箇所に応じて、大きさや硬さや動きの速さを微妙に変えた。

 彼女は、38歳のとき子宮頸癌を発症し、子宮と卵巣を摘出している。医者からはホルモン療法を受ければ性生活に支障はないと言われていたが、術後しばらくしてからのご主人との性行為において痛みを感じた。そういったことが何度かあり、それが原因となり、ご主人とはセックスレスになったようである。

 なので、ベッドの上で性的な愛撫を受けるのは数年ぶりのはず・・・彼女は目を閉じていた。口は声を発するたびにかすかに開かれた。

 乱れぎみな呼吸の渦に引き込まれるように彼女は快感の深みに入りこんでいった。彼女の甘い吐息をより身近に感じたいという衝動に駆られて、私は耳を彼女の口元のそばに移動させた。

 その時改めて彼女の表情をのぞき込んだ。すると彼女の閉じた目の端からは一筋の涙が流れ出ていた。「悲しいのだろうか・・・嬉しいのだろうか・・・」一瞬そんな疑問が頭をよぎった。きっとはっきりと定義付けできる感情ではなく、何かしら意味のない衝動的な感情の表出がその涙の原因なのであろう。

 そして、私を驚かせたのが、ピークを迎えたときの彼女の体の反応であった。体をまっすぐに支えることができないかのように、体を横にねじり、膝を抱えるような体勢になるのである。

 2度目に彼女がその独特な体勢になったとき、「こんな風にされたのは、初めて・・・」と彼女はことばを漏らした。

 「こんな風って・・・そんなに変ったことはしていないけど・・・」と私は答えた。

 「すごい、ソフトですね・・・不思議な感覚・・・何だか気が遠くなってとろけちゃう感じ・・・」

 「じゃあ、最後まで試してみる?」私は彼女の目を見ながら訊いた。

 「ええ・・・大丈夫なような気がする・・・」「寧々ちゃん」は、はっきりとそう答えた。

 目黒エンペラーを出た時には、雨はほとんど止んでいた。傘を差さないでも大丈夫なような雨であった。二人は傘をささずに並んで歩いた。目黒川にかかる太鼓橋を渡ると、あの急な行人坂が待ち構えていた。

 「行人坂」という名前がぴったりとくる坂である。そこを上がっていく人はみな一様に何かしらの苦しみを抱えながら歩んでいくように見えた。



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