2012/2/2

2149:不眠  

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 耕心館の内部は太くがっしりとした梁がダイナミックなラインを描き、漆喰の白い肌地は清潔感溢れる空気を送り出しているようである。

 3時過ぎにその中の店舗に入った時には、他に客はいなかった。4人掛けのテーブルが幾つか店内には並んでいた。

 今日は南風が吹き、ここ数日のなかでは異例といえるほど暖かかった。夜には風は北風に変わるとの予報であったので、きっと気温もぐっと下がるであろう。

 「寧々ちゃん」は窓辺のテーブルの席に座っていた。窓からはところどころにまだ雪の残る庭が一望できた。その雪も今日の暖かさでずいぶんとその勢力範囲を縮めたことであろう。

 テーブルについて、「寧々ちゃん」の表情をしっかりと確かめた。その顔色は少し青かった。もともと色白で血色の良い方ではないが、今日はさらにその色合いが透き通って、澄んでいるように感じられた。目には充血の名残が垣間見えた。

 「急にごめんなさい・・・」

 「よかった・・・ちょうど外を回っていたんです・・・」

 店員が床のきしみ音とともに、水とおしぼりを運んできたので、会話を中断してコーヒーを注文した。他に客がいない。天井がとても高い。声がいつもよりも通るような印象を受けた。

 「で、どうかしたんですか・・・」やや声のトーンを落として訊いた

 「不眠症のようなんです・・・それが続くと、どうしようもなく心細くなって・・・つい、電話してしまいました・・・」

 彼女はおどおどした表情を見せて、静かな口調でそう話し始めた。その後、子供と最近喧嘩したこと、親しかった親類が急死したこと、ここ数日間不眠症に悩まされていること、そのほか最近の彼女の身近で起きた幾つかの出来事やそれにまつわる自分の感情を吐露するように話した。

 冷静に見つめなおせば、それほど彼女の心に重く負担がかかるようなことには思えない事柄が多かった。大学生になった子供と些細なことで喧嘩することは、どの母娘にも起こりえることだし、小さかった頃とてもかわいがってくれた伯父さんが、検査入院していた大学病院で急死したことだって、社会一般という広いくくりでみれば特別な出来事でもないように感じられる。

 しかし、彼女にとっては、それらの出来事は安らかな睡眠を奪うような出来事であったようである。私は相槌をうち、彼女の視線を真正面からとらえるように心がけながら、その話に耳を傾け続けた。しばらくそうしていた。時間にすると1時間ほどであったろうか・・・

 そうこうしていると、徐々にではあるが、彼女の顔色にはほのかなピンク色の色合いが加わり始め、目つきにも穏やかな光がともり始めた。

 彼女の眼ははっきりとした二重である。大きめの瞳は茶色がかっていて、本来は柔らかな光が漂っている。

 空になったコーヒーカップの底には黒い液体の残りかすが動くことなくへばりついていた。相変わらず、店内には客はいなかった。ガラス越しに降り注ぐ日の光は時間とともに弱くなってきた。

 「寝むりたい・・・ゆっくり、安心して・・・」彼女は私の眼を見つめていた。そして、ゆっくりとした口調でさらに続けた。
  
 「一緒に寝てください・・・」

 庭の大きな木にはヒヨドリが来ていた。独特の鋭い鳴き声が聞こえた。つがいなのであろう、一羽が鳴くと、やや離れた場所でもう一羽の鳴き声が聞こえた。



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