日本語のほかに英語なんかを使って生きていると、「アナタは、英語でユメ見たりしますか?」と質問されることがあるが、もちろんある。夢では、意思の疎通が超言語的にできたりもするが、見たことのある何らかの「もの」や「風景」が出て来ることもあるのと同様、聞いたことのある言語が出て来ることがあって、それには日本語もあれば、英語もあり、その他の言語でも記憶に残っているものは夢の素材になる。
しかし、夢の場合には言語の果たす役割はそんなに大きくないように思える。意思は言語を介するまでもなく、結構伝達が可能であり、別に言語なんかなくても夢の中で生きるのにはそんなに支障はない。
ところが、たぶん近代以降の話であるが、言語を利用した情報量が爆発的に増加し、言語を操作できないと困ることがものすごく増えてしまった。それでその言語操作能力が非常に重要なものになり、「読み・書き・そろばん」というように、言語を理解すること、言語を使って意思表示すること、数的な処理を行うこと、といったことが教育の重要なテーマになった。
もちろん、それらの能力はあれば便利である、ということは言えるにしても、それがあれば偉いとか、人間として尊敬できるのか、というと、それはまったく別なカテゴリーの話である。人間にとって重要なことは、そんな言語操作、数式処理みたいな土方仕事ではない。そんなものはきっとAIの方が、よほどできるようになる。
ただ、AIの身になって考えてみると、数式処理の方は、正誤の判断が明確で誰がやっても同じ正解に辿り着く、という意味でずっとカンタンだ。言語操作の方は、相手がそれを納得するかしないか、すなわち正しいか間違っているのか、を判断することがずっと困難だ、という点で難易度は高いだろう。
実は自分もこうやって言語を決め、ネタを書き始めると、文頭に何を書いたか忘れてしまい、文末と整合性が取れなくなる、ということがしばしばある。それで、気付く人は気付いていると思うが、時折それは文章として奇妙なことになり、後で自分で読み返したら、何じゃこれ、と思って書き換えたりすることがある。
日本語なら日本語で、相手がその言語世界の中で一般的だと考えられている概念を利用しながら書かないと、相手に通じない。「その夕焼けの色は、次郎の目にはマンセル番号5R6/10であるように見えた。」と書けば、もし塗料に詳しいプロなら、なるほどあんな色か、と感動的に読むことができるし、その時の次郎の心象風景まで理解されるだろうが、普通の人には理解ができないので、小説には向いていない。
昭和時代にテレビを見て生活していた者なら、「コマネチ!」という所作がどんなものなのか普通に知られるのだが、百年後の日本人がそのテキストを読み、Wikipediaで「コマネチ」を検索すると、当時、Nadia Elena Comaneciというルーマニアの体操選手がいたことまでは突き止められても、なぜそこで、その体操選手の名が叫ばれたのかを解読することは非常に困難だろう。
すなわち、言語はある限定された地域、限定された時代の常識を前提としてはじめてコミュニケーションのツールとして成立するので、それゆえ、言語は無数に生じることになる。十年前の女子高生と今の女子高生に対談をさせても、両者の言語体系が異なるから、そのコミュニケーションは非常にむずかしいだろう。
じゃあ、部族ごとに異なる言語体系を発達させたら、異部族に遭遇した時にどうなるかというと、戦闘モードに入るしかない、というのが、今日アフリカ大陸あたりで実際に起きていることである。その時に平和をつくるのに必要なのが、自分の部族に所属していながら、相手の部族の言語をも理解する、というマージナル・マンの存在である。
他部族の言語を解する、という能力を持ったマージナル・マン、もしもその部族が他部族に遭遇して緊張関係が生じる、という事件が一切なければ、その能力はまったくの無駄であり、そんな能力を持った人間には何の価値もない。
ところが、近代は、自分の言語圏内で膨大な情報量を生産しただけではなく、必然的に他言語圏の世界にも遭遇することになった。かくして異世界に遭遇した近代人は、自分自身の言語世界の中でのみ価値があると信じられていた正義や道徳の規準に従って、それを他世界にも強要するために戦った。
20世紀の人類は、その程度の文明レベルに留まっていたわけである。ところが、自分の言語圏内で普通に正義と信じられている価値は、単に正義Aでしかなく、隣国には正義Bがあり、もっと向こう側には正義Cもある、ということが分かって来たのが、21世紀の人類の姿だろう。
すると、いくつもある正義同士を比較検討することができるようになり、そこからどの正義にも共有されている核心的な正義、それをメタ正義と呼んで良いと思うが、そういうものが抽出される、ということが、おそらく今から起こって来ることだろう。
東西冷戦はすでに決着が付いて、アメリカはソ連に勝った、というのは表面的な判定であり、アメリカの社会構造は、民主主義の仮面をつけていても、実質は持てる者が持たざる者を支配する、という中世的な支配・被支配の構造を持つ、ということは、キューバ人など反米陣営の者たちには既に見透かされている。他方、共産主義の理想を掲げた諸国では、人民による支配が実現した、というのは建前だけで、事実上は共産党員がそれ以外の国民を抑圧する、という構造でしかないことも、反共陣営の立場から見れば、明白な事実である。
アメリカ型、ソ連型、という二大勢力に分かれて冷戦構造が継続できたのは、アメリカの欠陥についての敵からの指摘が完全に正しく、逆にソ連の欠陥についての指摘もまったく正しかったからである。相手の欠陥の方が見やすいのは人間の性であるが、これを次世代に繋げるためには、今度は自分自身の欠陥を凝視する、という困難な課題に向き合う必要がある。
互いに自らの言語体系の中で常識化され、容認されてしまった欠陥を見つめ直すことが必要だ。そして、自分の体制の欠陥を指摘してくれるのは、自分の敵しかいないのである。
汝の敵を愛せよ、とはイエスの言葉である。汝の敵を愛することによって自分が得られるものは何か。それは敵の目から見た自分の姿であり、その自分の醜い姿に気付いた時、人はより高次元の存在へと純化することができる。21世紀の国際関係とは、それぞれの体制を支えている独善的な自己中心主義が自らの醜さに愕然とし、そこから融和がはじまる、というプロセスを経るのであろうと思う。

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