2017年が終わろうとしている訳だが、新しいものが生まれるためには古いものが壊れなければならない、という法則通りに物事は動いている。
日本政治では、自民党政治が終わった2009年に最大与党となって政権を握った民主党が、民進党と名を変えて、ついに2017年には文字通り四分五裂してしまった。
産業界ではまず東芝の粉飾決算問題が大きな話題になっているのだが、それ以外でも大手企業の違法行為が次々明らかになって来ている。結局、どんな会社も悪いことはしているものだ、というように考えるのはおそらくあまりにもザックリし過ぎた見方であって、問題を起こす企業はやはり指弾されるに値する問題をはじめから抱え続けていた、と見る方が良いだろうと思う。
日産自動車は、カルロス・ゴーン氏が社長に就任した1999年から業績が飛躍的に改善し、すっかり良い会社と考えられていたのだが、無資格検査員に検査をさせていた、そして書類には資格のある検査員のハンコを押す、という明らかな不正を当然のように会社ぐるみで行っていた、という事実が明るみに出た。
企業が自分の製品を生産して出荷するのに、いちいち国家が検査員の資格取得を求める、という制度の異常さは、自動車という製品にだけ車検制度がある、という国土交通省がつくり上げて来た自動車に関する巨大な規制システムの一部がすでに現実離れしている、という問題と結び付いている。
それでも、悪法も法、というのが、社会の常識である以上、何らかの考え方を日産は発表すべきであったのに、どうも日産の対応はグズグズしている、というのが、同じ問題を惹き起こしたスバルとの対比で、一般に語られていることだ。
最近、日産関連企業の内部事情を聞くようなことがあり、複数のソースから似たような話があったのは、文書というものは事実を表現すべき道具である、という一般社会の常識がどうもそこには欠けている、との感想だ。これは神戸製鋼のデータ改ざん事件でも似たような話があって、神戸製鋼の中にもデータというものは、事実を記載するものではなく、そうであったら良いなあ、という願望値を記載しておけば良いのだ、という文化が蔓延している、というように言われている。
神戸製鋼に関しては、窪田順生というライターが面白い点に着目していて、彼は神戸製鋼がソ連との技術協力を始めたころから、そうした文化が定着して来たのではないか、という観察結果を書いている。すなわち、ソ連の技術者にとってデータとは、組織の上部に提出すべき政治文書の一環であるから、当然に当局者にとって都合の良い数字であることが期待されており、そうした数字を並べることが技術者としての良心だ、という理解の仕方である。そうした技術者たちと付き合ううちに、そういうデータ操作がいかに組織の内部をハッピーにするかを彼らは学び、ついには自分たちの文化として定着させてしまったのではないか、というのが窪田氏の見方だ。
では日産は、どうして似たような文化を育んだのか。それはおそらく日産の企業風土を築き上げた塩路一郎という組合委員長の功績なのではないだろうか。
塩路は、戦後日本油脂という会社で倉庫業務を担当していたが、明治大学の夜学に通い、卒業してから日産自動車に入社した。当時の日産自動車が明治の夜間部卒業で年も取っていた塩路を採用したのは、彼が前の会社で労働組合に加入していたが、会社の方針に逆らうばかりの組合の方針に疑問を持ち、むしろ反組合活動に熱心だった、という前歴が魅力的だったからだ、と言われている。当時の日産自動車経営陣は、激しい労働組合からの攻撃に苦しんでいたからだ。
そして、塩路は当然のように日産自動車の労働組合に入り、頭角を現す。そして、彼が活躍をすればするほど、日産労組は経営者寄りに傾斜して行った。日本興業銀行から日産自動車に送り込まれた川又克二が社長、会長、相談役として長期政権を確立すると、日産自動車の経営判断は、経営陣ではなく、塩路天皇の意向によって決定される、と言われるまでになった。
経営者と組合が馴れ合う日本型の労使関係のあまりにも美し過ぎる典型がそこに生まれ、そのことは、川又も塩路も退いた後の日産自動車には伝統として残り、結果として日産自動車の無責任経営が企業の存亡の危機につながった、というのは歴史的事実である。
結局、そういう日産自動車の珍妙な経営構造をひっくり返したのが、カルロス・ゴーンだった。むしろ、彼がその改革を実現した、と言うよりは、もともと異常だった経営のスタイルをおかしいと理解できていた中堅層が結束してゴーン体制を支え、改革を実行した、というのが本当のところであっただろう。
労使癒着時代の馴れ合い経営では、厳然たる数字を重視しなかった。そして、ゴーン時代になってはじめて経営数字はリアルなものになったのだと思うが、検査報告書のハンコを誰が押すのか、というところまでは改革の成果は及ばなかった。検査報告書は、一応適法かつ適切に見えさえすればそれで良し、という文化は末端まであまりにも浸透し過ぎていた。そして、どうやらその文化は、単に検査報告書だけではなく、日産の文化圏ではあまりにも深くにまで浸透している、というのが現実であるように思える。
人に歴史があるように企業にも歴史がある。歴史は過去のことであるから、うっかりした人間の目には見えないのだが、いつかどこかでそのツケは問題として顕在化する。どの民族、どの国家にもブラックな要素はある。薩摩藩が琉球にどんな仕打ちをしたのか、という歴史はいまだに解けない恨みとして残っているし、それはどんなところにも存在している。それらを全部引き受けるかたちで現在というものはあるのだから、自分の人生や国家の運命に何が起こったとしても、それはそれで合理的に理由を説明できるものだろうと自分は思っている。それを解決することなくして、初詣さえすればあらゆる問題は消えてなくなる、と思うほど自分は天然な人ではないので、おそらくそうした神頼みを自分はしないはずである。
そうは言っても、2018年、皆さまが良い新年をお迎えになることをお祈り申し上げます。

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