昨日は、昔に所属していた会社のOB会だった。それがOB/OG会ではなく、OB会であるのは、その入会資格には一定の制限があって、在職時にある役職以上に就いた者でないと会員にはなれず、何とその組織では、そのカテゴリーに該当する女性がただのひとりもいないからである。
世の中には男性とほぼ同じくらいの数の女性がいる(いた)はずなのに、特に男性限定という制限がある訳でもない集団に、ただのひとりも女性がいない、という極めて異常な組織編成をしていたのが、何の変哲もない普通の製造業の企業の姿だった。
何しろ、その昔の日本では、エンジニア、営業職、管理部門など、あらゆる部門で組織を構成する者たちは男性限定だった。そして、女性社員は、受付とか、事務作業の補助とか、それこそお茶汲みなどが専門で、それぞれの部署の本流に女性を採用することは、夢にも考えつかなかったのである。
サウジアラビアでは、ようやく来年から女性に運転免許証を交付できる、というニュースに驚いた、という人も多いのだが、このOB会の姿を世界が見れば、やはり驚く人々が多いはずである。
日本の人権状況がいかに酷いか、という話になると、中国や北朝鮮に比べれば遥かにマシである、と真剣に言う人がいるが、それは、カースト制の下層にいる人でも、自分よりもっと下がいるのだから自分はカースト制のために苦しんでいる訳ではない、と自己の信念を正当化するのに似ている。(職場への女性進出、ということだけを言えば、中国は日本よりもずっと先行している。)
カースト制は、支配者によって強制され続けているからその状態が続いているのではなく、皆がそれに納得しているから、いつまでもそれが連綿と続いているのである。同様に日本的な美徳、というのが、実は人権の抑圧を小綺麗に語っただけのものに過ぎない、というのは、ちょっとでも客観的に日本人を観察してみれば、明白である。
日馬富士暴力事件、というのも、そういう人権を巡る戦い、という観点で見ると興味深い。
当初、その報道は、横綱による力士への暴行事件、というセンセーショナルな方法で日本人一般に知られるようになった。しかし、その後の報道は、「殴った凶器はビール瓶ではない」「なぜ貴ノ花親方は相撲協会への報告をすぐにしなかったか」「殴られた者の診断書は、本当は大袈裟過ぎる」等々、迷走をはじめる。
それが政治の手法であって、ある情報が出れば、その情報の重要性を打ち消すために、別の(たとえフェイクであっても)情報をガンガン出す、というのが、世のならいだ。
そもそも、現実に何があったかというと、酒に酔った人物が、自分の方が地位が高い、という優位性を笠に着て、パワハラ的に暴力を行使した事例なのだから、そこには反論の余地がない。
ところが、先輩が若手を説教していたのに、説教を食らっていた若い力士のケータイに(一説によれば、付き合っている女性から)着信があり、それに気を取られている力士の姿を見て、激高したためにその事件は起こったのである、と言う。
それを先輩に対する失礼な所作と見るか見ないかは、あくまでも主観的な話であるから、暴力を振るった側から見れば失礼千万の所業であり、振るわれた側から見れば日常普通のことでしかなかったのだろう。
先輩から何らかの諫言を受けた場合、それを直立不動の姿勢で受け取らねばならない、というのは、それが相撲の世界だから当然だと当事者は思ったのだろうが、それを人間社会一般の問題として考えれば、何を言っているのか分からない前時代的な人権感覚だ、と言わざるを得ない。
横綱が所属する相撲の世界から、普通の高校生が所属する野球部の世界まで、先輩と後輩の間に理不尽な秩序ができるのは、歴史的な伝統と言えるが、そんな歴史的伝統がすっかり有効性を失っている時代に我々は突入していることに、彼らはいまだに気付かないようだ。
日本のプロ野球は、おそらく相撲部屋や高校野球よりも進化していて、誰が上で誰が下か、という基準ではなく、ひとりひとりの選手のパフォーマンスを向上させるコーチングの技法とか、チーム・プレイを高めるための自発的なチームへの献身を促す雰囲気づくりなどが機能し始めている。
それは、日本のプロ野球の監督にアメリカ人や、メジャー・リーグの経験者が就任するような傾向と無関係ではない。そして、強いチームをつくるためには、強制と従順という方法よりも、個々の能力を開発させる仕組みの方が重要だ、ということが徐々に浸透しているのであろう。(もちろん、今時、何を言っているのか分からないが、地獄の特訓を課そうとする監督もいることはいるが。)
最近の相撲取りには、怪我が多い。おそらく勝てば地位が上がり、地位によって収入に大幅な差がつく、という制度の欠陥がその原因で、何であれ勝てば良い(それは、何であれ相手を倒せば良い、ということだが)、という単線的な思考の結果、無駄に体重や筋肉を増やし、力で圧倒しようとする傾向があるからではないか。
そして、地位が上がれば、土俵の外でもエライ、ということになり、エライ者に向かって弱い者はへつらえ、というパワハラを招いていることが相撲という競技の問題点であると思う。
せっかく幕内、十両というように、一部リーグ、二部リーグのような制度ができているのだから、力士の格は、幕内なら幕内、十両なら十両、ということだけで良く、一年を通して、幕内で最多勝を取った数名がその年の横綱で、その次に位置した数名がその年の大関で良いだろう。
昇格というおかしな制度があるから、実力以上に昇格すれば弱いと叩かれ、引退を余儀なくされる、という可哀相な事態も起こる。ある年に横綱でも翌年は普通、で何が悪いのか、自分にはまったく分からない。
いろいろな意味で、世の中の常識に合わなくなっている相撲という競技の制度設計、ここで根本的に変えないと、誰からも見向きもされなくなってしまうだろうと思う。

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