昨夜は、仕事は適当に切り上げて、新橋の居酒屋で管を巻くサラリーマンになりきる、というイベントに参加してみた。夕暮れの新橋は、久し振りに訪れてみると、その昔自分が毎日通っていた頃よりずっと人通りが多く、会社帰りの紳士や淑女で溢れていて、そこいら中にストレスがムンムンしている。
それで、あれやこれやとサラリーマンらしいネタをひとしきり語った後、「子どもたちは、何か面白いことしてるの?」と聞いてみると、それがちょうど大学4年で「就活」なんですよ、と後輩に当たる人物は答えた。
それで、夕べなんですがね、どうも近ごろの「就活」では、「あなたは何が目的で生きているのか?」ということが訊かれるようなんですね。それで、おとうさん、それについてはどう答えたら良いのか?と訊かれるわけなんですよ、と言う。
そりゃ、「就活」と言いながらまるで神学論争じゃないか、子どもは牧師にでもなろうとしているのか?で、おとうさんとしては、どう答えるべきと指導したのか?と聞いてみる。
ええまあ、人間は誰かを喜ばせることが大切なことなので、仕事であれ、家庭の生活であれ、誰かを喜ばせることができるなら、それが生きる目的を果たすことになるのじゃないかと・・・。
ほんとキミ、性格がいいよねえ。それで、その答えを聞いて、子どもからの反応は?
まったく話を聞いてない、という感じでした。
う〜む、そうだろうなあ。
ということで、大学生が「就活」に成功するためには、人生の目的についてまで、考えておく必要があるらしい。
もし自分が人事部の担当者からそんなことを訊かれたら、そういうあなたにとっての人生の目的は?と逆質問攻めにして、不採用になるのがオチだろうなあ、と思うが、そもそもそんな奇怪な質問をするのは、すでに人生に絶望していて、いつ自死してしまうか分からないような若者をあらかじめ排除するための、一種のスクリーニングがその目的なのだろうか。
リクルート・スーツに身を包んだ若者が、経済至上主義であるはずの企業の採用の担当者に向かって、「え〜、ワタクシの人生の目的はですね〜」という神秘的かつ深遠ななテーマを語っているとすれば、まことにシュールな図柄であって、少なくとも苦笑には値する。
そもそも、あなたはどんな目的で存在するのか、と人に尋ねるのは、自分の意見としては、たとえばクルマが存在する目的をクルマ自身に訊くようなもので、そんな質問に完全に答えられる者はいないのではないか、と思う。
あるクルマの存在目的は、そのクルマの設計者に訊かなければ、正しい回答は得られない。
人間の場合、ある個人が環境と無関係に生きる、ということはなくて、むしろ人間個人は宇宙の一部なのであり、個人の存在目的を知るためには、まず宇宙の存在目的を知らなければならないだろう。
では、宇宙の存在目的を宇宙自体に訊いても(どうやって訊いたら良いか、その手段がそもそも謎だが)、おそらく宇宙自身にも答えられない。それで、宇宙には創造主がいる、ということが想定されて、要するに宇宙は何者か(ヤハウェ、アラー、その他さまざまな呼称あり)によって創造されたのだから、創造主自身に尋ねるのが一番早いことになろう。
神の言葉を聞くために、モーセには燃えるシバが必要だったりするのだが、本来永遠にして無窮な神を理解するのに、視覚や聴覚といった感覚器官を通して理解するのは一種の便法に過ぎず、本来無限で抽象的な存在に対峙するためには、自分の精神が直接にその意志を受容する、というミステリアスな方法を用いるしかないと思う。
本当は、宇宙は神の被造物であるがゆえに、見えるもの、聞こえるもの、触れるもの、など森羅万象のすべてが神からのメッセージなのであるが、やはりそれを全体的に理解するためには、もっと抽象的な次元の情緒で神と通じるべきだろう。
そうすると、神から自分に伝わる「なにものか」があるのであり、それは新約聖書的な解説では、神の「愛」である、ということになる。
我々は、神から創造されたのであり、その神と自分とが「愛」によって繋がっている以上、神がなぜ自分を創造したのか、という問いに対する答えは、神が「愛」の発信者であるために、その「愛」の受信者が必要だったから、ということになるのだと思う。
つまり、「愛」は必ず相手方を必要とするために、神は私を必要とする。そうなると、発信者が受信者を必要とするのに、受信者は発信者を必要としていない、という片務的な状態では野暮な関係になってしまうので、神から愛された自分は、神に対して反応をすることになって、そういう交流が深まって来ると、自分は次第に神に似て来る。少なくとも、自分は「愛」の受信者であるだけでなく、自分もまた「愛」の発信者になろうとしてしまう。
そうやって宇宙が「愛」の受発信に満ち溢れる、というのが、神による創造の結果として実現されることであり、そうなれば、人生の目的は何か、という問いに対する答えも明白になり、その目的は神から与えられているのだが、まず自分が「愛」の受信者となり、それだけでなく、自分自身が「愛」の発信者にもなることによって、結果、宇宙の中に「愛」が満ち満ちていく、というその過程を神と我と我々が皆で楽しむ、という状態に到達することが、人生の目的である、というような説明になるだろうか。
果たして、「就活」の面接で企業の採用担当者にそのような高邁な理想を述べた場合、担当者にそれを理解するだけの器があるかどうかは甚だ疑問なので、自分のこの回答は、少なくとも「就活」用のマニュアルとしては、いかがなものかとは思うのだけれども。。。

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