イザヤ・ベンダサンという名の謎のユダヤ人(と言うか、実は山本七平という日本人)が「日本人とユダヤ人」という本を出したのは1971年のことで、当然、自分はリアルタイムで読んでいる。
趣旨は日本人論なのだが、自分としては、そこからユダヤ人の思考方法を学んだ(ように思った)。今の時点でそこに語られていたことを振り返ると、ユダヤ人論としては、彼らが流浪の民となっても何とかしぶとく民族として生き残ったコツとしての現実主義とか、原則へのこだわりの強さについて述べられており、ユダヤ人がいかに日本人と異なるのかがその主要な主張だった。(逆に、日本人はユダヤ的なしたたかさを学べ、という論調であったように思う。)
しかし、ユダヤ教自体の価値観ということになると、よく言われる日猶同祖論が説くように、日本人とユダヤ人とは結構似ている、というのが、現実的な話なのではないか、という気がする。
ベンダサン氏が語る通り、日本人とユダヤ人はずいぶん違う、という見方もあると思うが、人生に対する姿勢、というところになると、案外日本人はユダヤ人的である気がする。それは要するに、キリスト教的でもイスラム教的でもない、という意味でもある。
じゃあキリスト教的な基本姿勢は何かと言うと、生命とは神の愛から生み出されたものであって、その意味で生命、あるいは個人、あるいは結社は、政治権力みたいな世俗的な権威から独立しており、根源的に自由だ、という姿勢である。個人の基本的人権は国家の都合に勝る、というのが日本国憲法の理念であって、その本質はキリスト教的だ。
ではイスラム教的なのはどういうものかと言うと、これはアラーの絶対、無窮ということが非常に大きくて、その分、個人の価値は低い。国家となると、ほぼどうでも良い扱いにしかならない。(神のためには死ねるが、国家のために死ぬなんて、意味が分からな過ぎることになる。)
ところがユダヤ教は、確かに神を語りはするのだが、神と人間との関係は、キリスト教のような情緒的なものではない。神が愛の体現者であることは、ユダヤ人の中の異端者イエスによってはじめて発見されたのであって、その概念を危険思想視したユダヤ人の常識では、神はしょせん、ものすごいパワーを持った何者か、でしかない。だから、神とは交渉可能であるにしても、その仕打ちは予測不能であり、人間にできることは、神によって与えられた規則をひたすら遵守することしかない。
日本人は実はユダヤ人なのだ、と考えると、いろいろ日本人の謎が分かって来る気がする。勤勉は日本人の特徴であって、それは素晴らしい特質だ、と自画自賛する日本人がいるが、勤勉よりも人間にとって大切な徳目はいくらでもあって、創造性とか決断力とか明朗だとか公正とか、それは数えきれない。勤勉とか、ルールを良く守るというのは、自分の個人的な意見としては、あまり大した性格ではない。そして、自分の考えでは、それこそが、ユダヤ人と日本人の共通項なのだという気がする。
ユダヤ人が明示的な規則を重視するのに、日本人は暗黙のルールに従う、ということは言えると思う。しかし、言語的に表現された規則を守るよりも表現されていないルールを守る方が、症状は重い。すなわち、日本人の方が、よりユダヤ人っぽいとさえ言えるのではないだろうか。
では、なぜそんなにルールに従うのかと言うと、おそらく本来的に神を「恐れる」からではないのか、という気がする。日本人のキリスト教徒というのも、まったくの私見であるが、堅苦しい印象が強い。イエスの愛を感じるよりは、モーセが神に仕えているような姿にも見える。日曜日に礼拝に「行く」という行動が重要であって、愛があるかどうかは別物、というような。
それで、自分の中ではユダヤ人も日本人も一緒くたなのだけれども、彼らは「決められた」ことは守るにしても、決められていないことを自分から創造する、となると、途端に弱点を露呈する。「決められた」ことであれば自分の命でも犠牲にするのだが、自分自身の感性に従うことは苦手だ。
結局、今後のことを考えると、ユダヤ人も日本人も、その態度を改めないとろくなことはない、という気がする。特に問題なのは、そういうユダヤっぽさ、あるいは日本っぽさがそんなに悪くない、と自信を持っていることである。真面目なのが取り柄だから、彼らは学業も優秀で、カネも稼げる。しかし、それで幸せなのかというと、それはまったく別問題だ。真面目でいつまでもやっていけるほど世の中は甘くない。そのあまりの頑なさで周辺民族といつも揉めている。
「決められた」ことが本当に正しいかどうか、一から考え直す、ということを若いユダヤ人や日本人は真剣にやった方が良い。明示的であれ、黙示的であれ、ルールに従う真面目なヤツ、そんなヤツが世界に本当に貢献するのかどうか、という問題が残る。ルールに従う者が重要なのではなく、ルールをつくれる者が必要なのである。そういうユダヤ人の中から、せっかくイエスが生まれたのに、その価値が分からずに怖がって、結局死刑に処してしまうようなしくじりが二度とあってはならない、というように自分は考えている。

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