このところ、日本の大企業における社長交替のニュースが続々経済ネタになっている。セブン&アイの場合は、会長の思惑を取締役会が否定する、という意外な結果が出たが、目に付くのは、会長留任、社長交替、という事例が多いことだ。
会長は老齢であってもカリスマ性を持ち、社長はすげ替え可能であっても、老会長には余人を以て替え難い特段の資質があるから、その会長は続投とする、というようなのがその理由であろう。
さて、国家の場合は、その目標が多岐に渡っており、それが良い国なのか悪い国なのかは常に評価が分かれるのだけれども、株式会社というのは単純で、要するに利益を生み出す会社が良い会社、というように一律に評価基準が決まっている。
一般論として、事業環境が常に変化している以上、環境対応力に優れた経営をすれば良い業績が出せるし、いつまでも同じ仕事をし続けようとすれば業績は必ず悪化する。
そうであれば、経営者に必要な資質は、自己否定、自己変革をし続けることができるかどうか、ということだろうと思う。
深くは分からないが、そういう自己否定、自己変革をし続けて来た経営者の代表格は、今般その職を追われたセブン&アイの鈴木氏ではないか、と思う。その昔、アメリカのセブン・イレブンは、朝7時から夜11時まで開いている、という驚異的な営業時間を実現してアメリカの消費文化にショックを与えたのだが、スーパーの方も自助努力をして、営業時間をより自由にし、顧客の利便性を高めることになった。その間、セブン・イレブンは、一度実現したビジネス・モデルにもたれかかり、夜遅くまで開いているけれども、防犯に問題があり、やる気のない店員が不愛想にモノを売り、時には強盗とも戦う、という業態になってしまった。そして、並んでいる商品はいつも同じであり、スーパーで買い忘れた物がどうしても必要な場合にしかコンビニに行くことはない、という考え方が常識化してしまった。
ところが、鈴木氏がはじめた日本のセブン・イレブンは、コンビニという業態をどんどん進化させ続け、今般の熊本地震でも、被災者の生命や生活を守るライフラインの一部であるとまで評価されるようになっている。それは、鈴木氏が部下に対し、飽くなき自己否定、自己変革を促し続けた結果であり、それが可能だったのは、彼本人がそういう生き方を身に付けていたからであろう。
しかし、彼はそうであっても、部下はあくまでも言われたからそうしたに過ぎず、息子にその資質はあったのかも知れないが、それを実証することはできなかった。おそらく鈴木氏は、どんな部下にも自分と同様の能力を見出すことはできず、あるいは息子くらいは自分と同じことができるのではないかという妄想を抱いて、結局、株主や社外取締役、さらには創業者からも見放されてしまったのだと思う。
これは、経営者だけに起こることではない。宗教の一派を起こした聖人も、自分と同じ、あるいは自分を超える力量を持つ後継者を育てた例は珍しい。浄土宗の法然が浄土真宗の親鸞を育てたのは、その稀な例かも知れない。
偉大な人物というのは、なぜ偉大なのかと言うと、その人生において常に自己変革し、常に成長を続けたから偉大なのである。カリスマ性を纏った老経営者たちも、おそらくそういう能力を持っているのだ。それゆえ、老躯を押してでも新しい経営環境に立ち向かい、成功をおさめることができ、世間も評価するのである。
しかし、成功体験を後継者に相続させることは、事実上、不可能だというのが、歴史の示すところである。息子ならそれが可能だろう、右腕として長年仕えた者ならそれが可能だろう、というのは、世間がしばしば陥る過剰な期待である。偉大な人物は常に孤高であって、後継者などいない、というのが、歴史の示す厳粛なファクトだ。ただし、その偉大な人物が残した伝統は後代に引き継がれ、その伝統の中から新たな変革者が現れて、その偉大な人物が残した成果を引き継ぐ、というように歴史は動く。秀吉は信長の後継者であるが、同時に否定者である。そして、家康もまた、秀吉の後継者にして否定者である。
カリスマの教えを頑なに守る、という態度は、結局のところ、カリスマに殉じる結果になって滅びる。カリスマに叛旗を翻す者こそが、その伝統を継ぐ者になるのだ。
もちろん、会社経営は持続するものである。内部で権力闘争をすることは、会社を弱体化させる。それゆえ有能なカリスマに求められる重要な決断は、ただひとつ。自己の成功はすべて他人や環境のお蔭だったと悟り、黙って身を引くことだ。自分は求められている、と思うのは当然で、実際に彼を求めている者はいるのだが、それは追従者であり、実際は彼の敵なのである。真の味方は、自分に向かって文句を付ける者であり、自分に逆らう者だ。
成功が連鎖する組織には、そういう緊張関係が常にあり、そうやって自己変革、自己成長できる組織が良い組織なのだと思う。

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