手足を持たない社会批評家乙武洋匡氏が、「日本の学校はサラリーマン養成所」である、と述べたことで、どういうこっちゃ、と色々話題になっているようだ。
反対意見の中には、「学校」ってそもそもそういうもんちゃんかい?というものもあり、大人の多くはサラリーマンになるんだから、良いサラリーマンを養成するのは学校の役割やないんか?というものもあるようだ。
だが、40年以上も昔、「比較教育」という珍しい分野を専攻していた私の立場からは、乙武氏の批判がむしろ「日本の」という点にあるのであり、「サラリーマン」というのも、単に給与所得を得る者ということではなく、『さらりーまん』という特殊な精神状況を指すものであることに留意すべきだと思う。
日本のサラリーマンが世界的に見て、異様な人々であることは、良く言われているのであるけれども、骨身に沁みてそう思っている人は、あまりいない。そう強く感じているのは、日本の企業を買収しようとしたことがある外資系の経営者とか、ホワイトハウスの対日政策担当者とか、割と限られている人たちだけであろう。
自分自身は、逆に日本企業を代表することで、「ガイジン」と付き合っているうちに、彼らがだんだん日本人にイライラして来る、という体験を何度も繰り返すことで、変わっているのはあいつらではなくて、おれらの方だった、ということに気付いたのである。
大企業と付き合う場合、相手が相当偉い人だったとしても、彼らは基本的にサラリーを得ている。もちろん、ストック・オプションを持っていたりもするから、企業の株価が上がれば自分の利益になるということもあるが、基本的には、サラリーマンであると言える。しかし、彼らには、それぞれの地位に応じてジョブが明確に規定されており、職務権限がはっきりしている。そして、その職務については、大別して、決定する、という職務と、実施する、という職務に分かれている。
ところが、これは「日本の」サラリーマンを体験していない人には本当に分かりにくいことなのだが、日本の「さらりーまん」は、ほとんど決定も実施もしないのである。では何をしているのかと言うと、参加するだけ、である。
オリンピックじゃあるまいし、参加することなんかに意義があるのか?と思う人は健全な常識を備えた人であるが、日本の「さらりーまん」にとって重要なことは、参加することだけであって、それ以上でも以下でもない。
では日本の組織で意思決定に参加する場合に何が起こるのかと言うと、小さな寄り合いみたいな小集団が必ずあって、その小集団が物事を決定するのである。そこでは発言力の大きい存在がひとり、またはふたり、あるいは三人、というように暗黙のうちに決まっていて、その人々が「いいんじゃねえか」と言った内容が決定事項となり、あとはそこに参加していたメンバーがその決定に基づく行動を取る。
その場は、内部の価値観を正統化するセレモニーとして執り行われ、そのセレモニーを通過しない限り、何も決定されないのである。例えば、鴻海の会長がシャープの社長に会って、一定の合意ができて、メモが交わされたとしても、それは鴻海では最終決定として拘束力があるが、シャープでは拘束力がないものとされる。対外的な約束よりも、内部的なセレモニーが優先する、というのが、「日本の」サラリーマンにおける組織観だからである。
つまり、リーダーに決定力がない点が、日本的組織の根本的な欠陥である。もしも、それを決定であるがごとくにふるまえば、「勝手なことをする」という理由で反組織的、の烙印を押される。それは、集団を防衛するための組織観であるようにも見えるが、革新(innovation)が組織のために重要である場合、致命的な問題となる。
さて、そういう日本のサラリーマン文化を支えるのが、日本の「学校」の姿だ、という点が乙武氏の正しい言い分だ。自分勝手に考えない、自分勝手なことをしない、自分勝手なことを主張しない、その「自分勝手」という日本語表現が非常に問題であって、それは多数者と異なる異端者を許さない、ということと密接に繋がっている。手足がないことによって、見た目から異端側に所属している乙武氏は、普通に生きるために努力をしなければならなかった。それは、乙武氏だけではなくて、誰でもはじめからそんなに普通なわけではないから、日本の学校に通うと、それだけで不自然な圧力を受けることになってしまう。不登校が頻発するのも、多数者に合わせろ、という圧力が強過ぎて、心ある子どもたちがそれを忌避しようとするからだ。
多数者に合わせることができなければ、日本のサラリーマン社会に適合することができず、落ちこぼれてしまうぞ、と心配する親御さんもおられると思うが、安心してください、日本的なサラリーマン社会は崩壊していますよ、というのが、真実である。
官庁、金融、鉄鋼、エネルギーといった日本の基幹産業は、そうしたサラリーマンによって支えられている。そうして、それらは今後どうなるかと言うと、産業全体が瓦解する、という憂き目に会うのである。誰もが責任を問われない、という過去の因習的な伝統経営が、世界の競争状況に勝てるはずはない、というのは、高校生にでも見易い話だろう。
そういうことで、今の「日本の」学校で優等生と見做され、日本を支える基幹部分の「サラリーマン」になろうとするエリートの諸君、君たちには、残念ながら、明日はない。一方、「日本の」学校で生き難さを感じ、どうにもやる気が出ない諸君、諸君は自らサバイバルのための道を切り開くべきである。日本が今後頼りにすることができるのは、君たち以外にはいないのだから。
と軽く若者にエールを送ったところで、自分はしばらく「自分探し」の旅に出るので、これからの数日間は、PCなんか見向きもしないし、ブログの更新もしない予定である。何でも常習化してしまうと、それが自分を拘束するようにもなってしまう。一種の「シャブ抜き」を時々行うことで、自分は自分の自由を確認することができるので、読者各位のご理解をお願いするものである。

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