学問は文化の基本的な要素のひとつであるが、学問も文化一般も19世紀でひとつの頂点を極め、20世紀には、文化や学問が小粒化、細分化してしまったので、あと一千年くらいして文化史というものを研究してみたら、誰も20世紀の文化になんか興味を示さないのじゃないか、というのが、自分の感想である。
ただし、19世紀と20世紀とで大きく異なるのは、文化の担い手となる人口が爆発的に増大している、という点である。すなわち、文化は宮廷や貴族の邸を去り、コンサート・ホールや町屋に移動してしまい、それとともに学問は、大衆のものとなり、義務教育の制度化により、国民の誰もが読み書きし、学問に向かう機会を得るようになったのである。
自分の場合で言えば、19世紀の先祖はおそらく利根川沿いで農業か、あるいは水利のための土木工事、または物流などに従事しており、寺子屋にも通っていたと考えれば、ヨーロッパの当時の民衆に比べれば相当程度高い教養を持っていたはずである。読み書きができるばかりでなく、水利のために幾何学を知る必要があって、和算に熱中していたりしたら、相当に親近感が持てる。
それにしても、寺子屋が学校になり、洋書綴じの書籍が一般化したとしても、19世紀ではまだ学問は庶民のものになっていない。それはヨーロッパでも同じことであって、天才的な少年が出現したとしても、農民のせがれが大学者になるキャリア・パスは、絶望的なくらい存在していない。しかし、彼がもし貴族の次男、三男などであれば、19世紀は自由な思索を深めるのにふさわしい、素晴らしい時代だったことだろう。
ところが、20世紀になると、それはもう「国家」や「国民」の時代である。とても学問どころではなくなって、そんな暇があったら実用的な兵器でも開発しろ、というような風潮となり、リベラル・アーツは衰退し、学術論文の数は天文学的に増えるのだが、すべてが重箱の隅をつつく細かい話ばかりになって、それでも学者が務まる、という哀しいことになった。
ある意味では、19世紀の世紀末にあらゆる考え方が出揃ったから、という見方もできるが、ヘーゲルが哲学で目指し、ワグナーが音楽で目指した「総合XX」は、いずれも中途半端に終わり、その後が続いていない。物理学の場合は、量子力学の登場で、ようやくニュートンの牢獄からは出られたものの、その後は実験や実証に向かうばかりで、大きな世界観や宇宙観を提示する大科学者はまったく出て来ない。
義務教育がはじまって以降の「学者」は、ほぼ全員が「専門バカ」になることを強要され、気宇壮大な理論を語る、という風潮が、ヘーゲル、ワグナー以降、本当になくなったのがさびしい。
そこで、そろそろ勘の良い読者はお気付きであると思うが、誰もやらなきゃオレがやる、というお調子者である私は、世界観あるいは宇宙観の革新ということを考えてみたのである。
まず、大きなピクチャーとして、人間の思考全体を周波数で並べ、スペクトルをつくってみる。周波数の大きいものは、時間あたりで微細に振れるもの、すなわち人間の情動を示す。これは人間の精神生活を表し、このスペクトルの最も端にある点はおよそ人間が人間らしからぬ境地に至ったもの、それは涅槃、法悦、あるいは神人合一みたいなポイントで、その近傍を取り扱うのは、人間文化の中では宗教に属する。そこに接続するものとしては人間の情緒生活一般というものがあり、そこには愛とか恋のようなものがあり、そこからだいぶ周波数の低いあたりに哲学が位置し、さらにその先に科学が属している。
そうやって、人間の精神生活全般をスペクトル化してみると、ある人は宗教分野だけで満足し、ある人は日常生活のてんやわんやに終始し、ある人は哲学的に思索するのだが結論が出せず、ある人は科学の発展と称して重箱の隅をつつく作業に余念がない、というのが、人類の現在位置なのではないか、という気がしている。
そうすると、人間としてあるべき悟りを得るには、この精神スペクトル全体を一元的に理解する方法論がなければならないのではないか、というのが、まず自分の問題意識である。
特に科学の無能ぶりが自分には気になる。科学は矛盾を排除する、という方法論は卓越しているのに、世界観となると、ニュートン以降、ほとんど進歩していないと思う。
19世紀に提案された考え方として、現象学がある。これは「ものの認識」を問う理論であって、我々は「何か」をその通りに認識する、なんていうことはまずできないので、実は対象と自分との間の相関関係の中で、その「現象」を認識しているだけで、それが「何か」というのは、いつまで経っても分からないのだ、という理論である。
「科学者」は、この点をよく考える必要がある。我々が観察や実験で確認しているのはその「現象」なのであって、対象が「何か」ということになると、自分を離れて客観的にならなければ分からないはずだから、その「何か」を分かったことにはならない。
しかし、対象が「何か」という意味は必ずあるはずなので、我々はその意味を求めなければならないはずである。そこで、我々はスペクトルをぐいっと横切って哲学から日常生活を越え、宗教の世界に行くとその最先端には「神」がいる、ということになる。そうなると、この世界、あるいは宇宙というのは、神を中心としてかたちは球形と考えても円錐形と考えても扇形と考えてもそれ以上の次元の形と考えても良いが、そういう中心から発展したものだ、という考え方ができるのではないか、と思う。実は、宗教から人間生活から哲学の半分くらいまでのところは、生命という現象を語っているのだ、と見ることができるのではないか。そして、哲学のうち形式論理学とか科学の方になると、生命を棚上げして、時間変化の少ない、極めて安定的な世界を相手にしている、と見ることができる。
そうすると、科学の方法論だけでは世界のすべてを理解することができず、特に生命現象という我々になじみのある世界は、ほとんど科学的に説明されていないことが分かる。生命現象にどんな酵素が必要かとか、遺伝子の構造くらいまでは分かっても、では生命はいつどのようにはじまって、その理由は何なのかは不明なままである。この点について唯一挑戦した科学者はソ連時代のオパーリンであって、彼は徹頭徹尾、地球表面の変化の中でアミノ酸がたまたまできる可能性について言及したのであるが、もしも生命の発生がたまたまだったのなら、自分の人生もたまたまであり、たまたま生まれた生命が死んだとしても、それもたまたまに過ぎず、それがうれしいとか悲しいとかいう感情を惹き起こす理由がまったく見えないことになる。しかも、そのたまたま確率は超絶低いものであって、たまたまくず鉄屋が捨てられた部品を山積みにしていたら、そのゴミの山が大雨で流された結果、走りの良いベンツが完成してしまいました、くらいの荒唐無稽な説だった。
だから、人間の側から世界がどう見えるのか、を現象学的にどんなに記述してみても、それは人間の目で見たハエがこう見える、ということに過ぎず、それはカメレオンが見たハエとも異なり、蚊から見たハエとも異なるのだ。それで、ハエとは何か?という難題にいくら取り組んでも、その回答はさっぱり出て来ない。
特に、科学の不備なところは生命同士の情報の流れが一向につかめていないことだ。人間と犬との間に一定の情的な結び付きがあることまでは多くの人が経験するが、聖フランチェスコは小鳥との間にそのような情的な紐帯を持っていた、と言われている。人間と動物との間に情的な交流が可能なら植物、あるいは鉱物との間はどうなのか?という設問は、オカルトだ、ということで片付けられ、「科学的」じゃないから、という理由で排除される。しかし、人間の知は、スペクトルの全体をもって完結する必要があるので、対象とどのような情的な結び付きが可能なのか、という点まで科学はその範囲を拡大しなければいけないと思う。
自分の想定としては、あくまでも人間という物理的に制限の多い立場から現象学的にアプローチし、それを帰納法的に一般化しようとしても限界があり、むしろ、神の存在から神が生命を必要とする情的な原因を探る(それは、森羅万象という問題文を読ませて、「神」はなぜ「人」を創造したいと思ったのか五十字以内で答えなさい、という現代国語みたいなアプローチだ)ことが必要なのではないか、と思うのである。
生命現象は、おそらくサンプルをいくら試験管の中で培養しても解明されず、生命体が持っている情的な要素を究明しなければいけないのではないかと思う。ならば、論理脳だけではなく、情的感性こそが、人類知をさらに進化させ得るのではないか、というのが、今日の思索である。

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